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1日ブルーな3時間弱

いわゆる大作だ。史実モノで客層も年齢高そう。まず泣けない訳が無い、といった感じのいい話なのだろう。なのになぜ行定監督??
カセチュウの時にも同様の疑問符が浮かんだ。彼のフィルモグラフィを見れば疑いを持たずにはいられないだろう。それほど、インディペンデント系(渋谷とか下北とか中央線とかいう形容でもいい)若手監督として注目されていた。永瀬とか浅野忠信とかがウダウダ同棲して夜中の高架下で喧嘩して薬やって始終ダルそうにしている映画の系統から、いきなりセカチュウかよ? そして吉永小百合かよ!??
矢口史靖とかもPFFで賞とって『裸足のピクニック』とか『アドレナリンドライブ』とか、そういった方向の映画を撮る人かと思いきや、『ウォーターボーイズ』が当って『スウィングガールズ』みたいな企画でしか撮らせてもらえないのかな、などという余計な心配してしまうほど、映画で飯を食うのは難しいのだろう。マンガ『め組の大吾』をドラマ化する際にメインタイトルが『ファイヤーボーイズ』になってしまうような悲しみを感じてならない。
仕事としてこなしたのか、どうしてもやりたい企画だったのか、行定の心情は知らないが、これが感動大作の顔をしていながら、細部の演出が実にステレオタイプな、まるで特撮ヒーローばりの大仰さなのだ。
#ちなみに以下、ネタバレ寸前あり。
たとえば、吉永小百合がレイプされそうになるシーン。寸でで豊悦が助けるのだが、その登場がスゴイ。吉永小百合を襲う倉蔵(香川照之)の顔をかすめるように横の木に飛んできたナイフが刺さる。ナイフの飛んできた方向を見るとそこには豊悦!
今日日水戸黄門とか必殺仕事人でもみないようなベタな演出。ラスト、豊悦が正体をばらして特攻するシーンでも、自らのこと(武士道がどうの今までの経緯がどうの)を浪々と語ってイザっ!ってな具合に刀を抜いて突っ込んでくる。子供が特撮ヒーローの必殺技をただひたすらに待ち構えるだけの敵役に「その間に逃げちゃえよ」とツッコミをいれるように、そんくらい大見得をきる豊悦。その後の展開もベタだし。
ことあるごとに、吉永小百合がいいこと言うと、まるでミュージカルのように役者が横に整列してるし、どこそこ構わず荒れた大地を耕し始めるし、文脈的におかしいだろう?という状況でも、明日への希望を見出した瞬間、間髪いれずにとにかく桑を持って畑を耕す。稲が根付かないといっているのに畑を耕す。
今にして思うと、テンションとしてはミュージカルかな。歌こそ歌わないけど、歌いだしてもおかしくないくらい状況とあわないアンリアルな演技に演出。役どころもステレオタイプで、長い話が結構なスピードをもって展開するので、そういう意味でもいわゆるマンガチックな印象を受けた。セカチュウはみてないけど、こういうマンガチックなベタができるってことは、ベタな恋愛モノで泣けるものつくれる監督なんだろうなって、予測がついた。
役と言えば、吉永小百合の気の強さってのも一応の説明がついているのだけど、動機付けが弱すぎる。というか無い。渡辺謙の気変わりも説明はあっても心理的に腑に落ちるレベルまでいってない。歴史に翻弄される人々というところで納得するしかないのだろうが、そういう心理描写の部分で歴史のせいにしてチャッチャと話だけ進めようってな感はぬぐえない。そこが尺の長い映画ながら時間を短く感じさせる由縁なのだろう。
時の流れには逆らえず、その中で如何に生きていくかという大命題を掲げながら、肝心の夢を信じて生きようと決めるに至る、その心理的プロセスが描かれていないので、なんでそこまで堪えられるのかが良くわからない。だから状況が悲惨なだけで、その悲惨さが解せないから、見ている側としては漠然と悲惨な状況をみせられている感じがして、そのブルーな気持ちだけが残る。もうひたすらにブルー。
ひたすらブルーといえば、山田洋二の『学校3』もひたすらブルーだったが、こちらは悲惨な状況でも心理的に理解できる描写がキチンとあった。なにも設定が現代だからというわけではない。たぶん、泣けるエンターテイメントの解釈の違いだと思う。
泣けるエンターテイメントをつくる場合、泣ける要素とかそういうものってステレオタイプとして殆ど決まっているのだろう。それをエンターテイメントの映画として成立させる場合、配役は人気どころ、話題性のある人は勿論として、そういった役者でわかりやすくつくるのに、『北の零年』は大仰でベタな演出という方法をとった。そういう点で言えば、『学校3』は大竹しのぶは話題性があったかもしれないが、小林稔二では渋すぎた。感情や問題意識という部分に重きを置いた分、エンターテイメント性は低いといえる。
その点、『北の零年』の感動度合いとしてはどのように受け取られているのか、非常に興味深いところではある。
以下は蛇足だが、舞台セットが日光江戸村のようにチャッチくみえたのは残念だったが、ロケパート、特に5年後になる前まではかなりよかった。話題の吹雪のシーンは圧巻で、冒頭の浄瑠璃のサクラも見事。そしてなんといってもイナゴ! 馬もよかったが、とにかくイナゴ。イナゴがスゴイよ、イナゴ! ある意味、イナゴ映画かもしれない。イナゴ嫌いは見ないほうがいいかと。気持ち悪いくらい。CGいい仕事してるわ。

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SEED DESTINY は自衛隊に見えないの?

もう派生するガンダムに興味は無いのだけど、たまたま『SEED DESTINY』(以下デスティニー)の第一話をみた。
 
『Vガンダム』がボスニアだったからすぐ繋がっただけかもしれないけど、これはモロ自衛隊じゃない!? つまり、イラクに派遣される自衛隊。
 
平和憲法違反なのか、抑止力としての軍隊保持なのかっつーところがモロに台詞としてキャラに言わせちゃうあたり、自覚的に国防救援団体なのか軍隊なのかという選択下に置いているんじゃかろうかと。
 
アニメと実際をリンクさせるって言うのはオタク的発想の、いえば特権みたいなもんで、アニメというものにリアリズムを見出せないオッサンなんかにゃ到底及びもしないもんのはずだけど、「SEED DESTINY 自衛隊」でググってみても、やっとこのサイトが引っかかって、他は殆ど萌えばっか(チャットとか2ch系BBSは調べてられないからわからないけど)。
 
 
ヤマトあたりから起因して、ガンダム以降の虚構の中の歴史創造っていう、大塚英志とかがお得意の冷静崩壊後の大きな歴史物語の再生産がアニメで行われるってやつ。ファイブスター物語なんかが顕著だけど、空想の歴史つくって遊ぶ的なもんは90年代以降のオタクにはないものなのか、史実とのリンクとか、そういったリアルなもんとしてアニメと対峙しなくなったのだろうか?
 
いや、現実と混同しているとかそういう話ではなくて、キャラクタの葛藤とかそういったもんをリアルに感得して、自分なりの問題意識として照らし合わせる、みたいなことはしないのだろうかと。萌えはわかった。でもそれは対象と自分は次元の違う隔絶されたものとして、無責任というか、冷めれば紙くずみたいなもんなのかなと。
 
連日報道されて、日本人も殺されて、自衛隊派遣延長の議論も続く中、デスティニーを見て一時的に萌えて消費して終りなんかね? 仮に萌え対象のキャラが死んだとしても、イラクで日本人が殺されても、それらを知った一人の人間の感情として、自分にとってはどうでもよろしいってことなのだろうか。
 
自分が所属していると思っている共同体の定義ってことになるのかもしれない。同じ日本人とかってアイデンティティないと、イラクで日本人人質になってもどうでもいいのかもしれない。個人的には人質にイギリス人も韓国人もないと思うけど、少なからず日本にいる日本人という視点で報道はやってくる。それをどう解釈するかは個人の勝手だけど、現在の日本という上で自らを自らであると規定しているならば、政治的パフォーマンスの対象として日本人が人質にとられるってことに対する、なんらかの感情の動きはないもんなのかなぁ。虚構とか現実とかってことじゃなくて、アニメ見て感動するっていう個的で素直な自分の感情として、日常の驚きも自らが体感した感動ということで等しいなら、アニメキャラでも自衛隊員でも死は等価にはならないのだろうか?
 
少なくともソ連やベルリンの壁の崩壊をリアルタイムにいたものとして、冷戦構造などなど、第二次大戦の爪痕はパトレイバー2じゃないけど、戦争は続いているって思わせるに足るものだ。アニメでとりわけ戦争を扱うならば、核やらなんやらが取りざたされることが当然に思えるし、そういったものをみて、思うところは常にある。
 
自分がアニメから遠く離れた感覚を覚えるのは、アニメから第二次大戦を感じないことが増えたからだろう。そんな気が最近、夙にするのだ。

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実写ってナンだ!?~未だ観ぬ『つるばらつるばら』へ

アニメだけじゃなくて、実写も何でも動画として記録されたものをメインに扱うことを決めた動画百席。第一席は実写問題。いきなり大上段に構えてしまったけど、大丈夫なんだろうか?

よく言われる映画はアニメで、実写も1/30コマのアニメであると。つまり映画とはアニメのことなのだ、という理屈。

アニメというとガンダムやエヴァンゲリオンとか、ヲタでアキバなイメージがつきすぎてしまうので、アニメーションとするとわかりやすいかもしれないけど、そこまで厳密にアニメーションという視野で観ているのって、オタクでもそうそういない(なのにアニメは文化だとかいわんでほしい)。でもまぁ、いわゆるヲタなアニメもアニメーションに違いないわけで、ま、そういうもんもなんでもひっくるめて、動画でいいかと。

そうなると、マンガってのは動画じゃない。マンガも扱うかもしれないけど、あくまで動画の引き合いとして。そこどまり。この理由は実はかなり根深いもので、この百席を追っていけば自ずとわかってくると思う。

まずはそのマンガ原作というヤツ。TVドラマでもいやというほど目に付くけど、アニメとなると、なんかマンガ原作の方が偉そうに写ってしまうのはなんでだろう?

なんて媚びたフリをしなくても、答えは簡単。国産アニメ第一号の段階でマンガを原作という位置づけにして、アニメをその下、二次的著作物という扱いにしたから。あの、手塚先生が。文句はいくらでも出てくるが、ともかくこの位置づけが後々尾を引いて、非常にやっかいな問題になってしまっている。逆にマンガを原作にしないと収益が出ない、というか企画が通らないのかな? という悲しい現実もあるわけで、如何ともしがたい。

ともかく、表現メディアとして方法論が全くといっていいほど遠いもんを繋がっているようにみせるもんだから、映像化されると、やれイメージと違うだのなんだのとクレームがついて回る。自分なりに解釈付け加えるのも面倒くさくなってくる。(^_^;)

原作なんて読んでる必要性ないんだけど、たまたま読んでたりすると、どう映像言語として処理するのか、ここを楽しむというのが原作つきも醍醐味だろうか。

で、先日なんかの記事を読んでいたら、犬童一心が出ていた。「ジョゼと虎と魚たち」で注目を浴びたが、未見で名前だけメモリーしていた。で、こんど上映するか撮ってる最中かの作品があって、もともと企画としては大島弓子の『つるばらつるばら』をやる予定だったという。

アホなこというようだけど、個人的には最初に『つるばらつるばら』やりたかった。あ、でも結局別の作品になったから可能性はあるか。

犬童一心のプロフを観ると、なんと以前に『金髪の草原』をやっているではないか!? 2000年か・・・知らんかった!

観てからまたここにカキコしようと思うけど、大島弓子原作狙いは、金子修介(『毎日が夏休み』)だけじゃなかったか。しかも88年に『四月怪談』も映画化されてるし。

観たのは金子の『毎日が夏休み』だけだけど、どうにもうざったい映画だった。原作の科白も散見できたが、フツーに演技上の科白にすると、どうも上滑りというか説教臭く響いてしまう。映画『毎日が夏休み』という世界ができてなく、マンガ『毎日が夏休み』を一生懸命なぞっている印象しかもてなかった。原作をよくよんでいる自分がいけないのかもしれないが、たとえば竹中『無能の人』なんかではそれを感じなかった。

金子の場合、『1999年の夏休み』(萩尾望都『トーマの心臓』がモチーフ)の方がしっくりいった。男性の役を女性でやるという試みが独自の映画言語を構築していたと思う。この企画も、最初はATGの企画だったというから合点がいく。そういう点では山田勇男の『蒸発旅日記』もつげワールドと形容されながらも師の寺山修司的な独自の世界観(つげ義春作品に美少年趣味はないでしょ)で、有でしょ。『毎日が夏休み』の功績は佐伯日菜子の発掘につきる!?

で、犬童一心。プロフ見る限り、市川準組だったのかしら? 『金髪の草原』で池脇千鶴ってあたり、市川準の『大阪物語』で脚本やってるから、その辺のつながりなのかと。

でも、日本の女優さんは若ければ若いほど、顔が生えるというか、パーソナリティのハッキリとした人が多いし、撮る側もそこら辺はっきり見せたがるから大島弓子の世界の女性としてはキャラクタが前に出すぎてしまうような気がする。まぁその辺の処理が犬童映画になっていればいいのだろうけど、未見ゆえ謎。

でも映画全般としてそんな傾向があるんで、監督の映画というより役者の映画になっちゃうんだろう。まぁ宣伝的には致し方ないのだろうけど。とりわけ大島弓子作品の場合、女性は魅力的であってもそれは結果論であって、世界というものを前面に出す、発動させるコアみたいな位置づけで、設定上はいるようでいない存在感薄めのキャラクタなのに、作品上では存在感ありまくりという難しいもんになっている。それゆえ、映像化の際は監督の世界の認識なんかがもろに影響でて面白いのだけど、原作がそういう素材ゆえ、ただの役者さん映画にするのはなんだかもったいない。

とまぁ、はじめてのカキコミで冗長になってしまったけど、長く続けるために今後は短く刻んでいくんで。

観てないもんでこんだけ書いちゃったんで、観たときのカキコとの比較が面白いんじゃないかと。

このブログの視点はこんな感じなんで、里程標になってればいいなぁ。

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