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ソコハカトナク切ない80年代~アイドル歌謡編

雑誌『東京人』で、『二十才の微熱』の橋口亮輔が想い出の歌謡曲だったか何かの特集で、浅香唯『Believe Again』を挙げ、周囲から明らかに浮いていたのを先日なぜだかふと思い出した。
 
なんでそんな特集で浅香唯?と誰しも思うだろうし、自分もそう思った。橋口自身も特集や雑誌の性質を考えるべきだろうし、編集も幅広くと思ったかもしれないが、にしても読者層から方向性を考えるべきだったかもしれない。
 
そぐうそぐわないはべつとして、橋口の気持ちはとてもよくわかる。文中、80年代アイドル歌謡に漂う獏とした切なさについて言及していたのだが、自分にとってのそれは浅香唯というより南野陽子『さよならのめまい』だったりする。来生たかお/えつこ姉弟の作詞作曲で、これといって泣かせる楽曲だったり歌詞だったりしないのだが、そこはかとなく切なく、夜、情緒不安定な青年が耳にすると何故か頬を涙が伝ってしまう種類の切なさがあった。
 
特にアイドル歌謡なんぞはその場の刹那的な消費物であるから、時流の楽曲を反映しやすい。その意味では今日の、なにかとジャンルわけしても所詮は歌謡曲であるところのものと大差ない。なのに、あの時代の漠とした切なさは殆ど感じられない。たまたま多感な時期に聞いただけだからだろうか。
 
しかし、趣味が高じて30~40年前の歌謡曲を耳にすることも多いのだが、そういった経験と当時青春時代を送った方の感想と照会しても、どうもあの漠とした切なさとは違った感情を持って迎えられていたようだ。
 
エンターテイメントとして泣けるという要素は最も数字やお金を取れる大事な要素なのだが、いわゆるメッセージ性の強いフォークや、その後ニューミュージックへと向かうフォークあたりが、所謂泣ける歌としてのエンターテイメント性を前面に出してきた。そういった流れの中で、呉田軽穂(荒井由実)や松本隆、大瀧詠一、財津和夫、大村雅朗、竹内まりやあたりがアイドル歌謡への楽曲提供をはじめ、松田聖子の登場あたりからそこはかとない泣ける歌謡曲が出てきたような気がする。
 
その後、所謂80年代型のマネキン的アイドルの終焉と共にこの手の歌謡曲も聞こえなくなってきたが、藤原新也が当時ユーラシア大陸の放浪から帰ってきて、『東京漂流』や『乳の海』で書いたような実在感のない形骸化したアイドル像(まさに偶像としてのミテクレだけの存在)に、なぜそのような歌謡曲が歌われ、そしてヒットしたのか。
 
演歌やムード歌謡のような怨恨を含めた、一人の人間としてのサガを背負った情念の世界ではなく、吉本隆明ではないが当時のバブル前/中とする表層的な価値判断であったり共同幻想的なものが、人間の感情として吐露されるものではなく、状況を描写することで実体のない不在感が悲哀となって現れているのではないだろうか。
 
分析の真偽はともあれ、斉藤由貴にしても森口博子、姫乃樹リカ、はては立花由佳(90年代入ってしまったが、ここまでくると誰が誰だか。。。ついてきてくださ~い)まで、隅々まで切ない系アイドル歌謡は行き渡ったので、いろいろ探してみると面白いかもしれない。この流れは森高も当然踏襲し、アイドル歌謡とは別のベクトルへ本人のポジションに追随して流れていった気がするが、その寸前までならこのジャンルは未だ開拓の余地あるなと。
 
と、ここから切ない系アニメの話へと繋がるのだが、分量も増えたので続きは後編ということで。
 
立花由佳で上手い事つながるな、うん(ニヤリ)

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