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notイノセンス?[中編]

昨今ブログで感想をUPし、これまでよりも多くの人の感想が見れるような状況になっている。そこで『イノセンス』の感想をみてみたが、多くは非常に客観的、つまりは冷静に状況をみているという印象だった。確かに押井作品を人に勧めるという行為を考えれば、奥歯に物の挟まった言い方にならざるを得ないのは仕方ないとは思う。だがブログという日記的な表現の場において、不特定多数の目にふれるとしても、その人なりの楽しみ方がなされてなければ、見る側としては煮え切らない思いがするばかりではないだろうか。「いつもの押井」「万人受けはしないが、これはこれであり」「映像だけでも見る価値あり」などと他人を気にした表現ばかりで、自分がどう楽しめたか、という感動が伝わってこない。これなら、「つまらない」「衒学趣味」という怒りの反応の方がよっぽど伝わってくるものがある。
しかしこれれを非難しているわけではない。それこそ、100人が100人なりの肯定的なり否定的なりの感動があるとは思えないからだ。そうではなく、これまでいくつかの押井作品を見てきた、多少なりとも好きだと思われる人の感想として、「自分はなにものなのかといういつものパターン」みたいな言い回しが殆どだった。
ちょっと待って欲しい。確かに押井作品にはそのような科白はどの作品にも必ずといっていいほど登場する。だからといってアイデンティティを巡る旅の物語=押井作品なのだろうか?
 
主人公が自らに懐疑的になり、自己を同定せんがためのドタバタに巻き込まれアチラとコチラを行き来して世界の全貌をみて、そして現実と目される地点に戻ってくるストーリーがあれば押井作品であって、そういった筋の話は全部押井のパクリみたいな風潮をどうにも感じてならない。一人の人間がつくりたいと思うものの話というものは大してヴァリエーションのないもので(あるとすれば仕事として書きたくもない話を量産できるタイプの作家だろう)、その限りではこういった筋立て=押井作品だろう。しかしどうも自分にはこういった筋立ては結果的に選択せざるを得ないものでしかなく、他にないから結果的に似たようなパターンになってるだけに思えるのだ。
というのは、中身と外殻の対比のように、映画という眼前に上映される現象そのものを考えたとき、見る側(観客)と見られる側(投影されている図像)の関係をアチラとコチラとして、それを劇映画という形式に当てはめて、その関係を巡る物語に仕立てると、いわゆる押井作品の筋立てパターンにならざるを得ないというだけなのではなかろうか。この筋立てを以て取りざたすることこそ、その中身とされるもの(ストーリー)ばかりが取りざたされ、映画が観れていること映画という状況について考えられていたことがないという状況、それそのものではないだろうか。関心は、アチラの世界にいって、コチラに帰ってくるとか来ないとかではなく、どちらが本当の自分なのかでもない、対比として似ている世界がもう一つあるという、観客と映像と同等の状況にあるのではなだろうか。翻って、自分が今目撃している映画という状況に対して向き合う契機になる構造を保持するため、映像はストーリー以外のレベルでのスクリーンと観客の関係を対比させてる事情に満ち溢れ、科白にとどまらぬ瑣末なオブジェクトにさえ力点が置かれ描写、演出されている。先に述べた人形の外殻の表現もそういったものの一つだろう。
仮に斯様な物語パターンが押井作品だとしたら、ほぼ100%該当するのかといえば、そうでもない。かなり広義にとっても、『BD』『天使のたまご』『紅い眼鏡』『迷宮物件』『トーキングヘッド』と、かなり初期のものに限定される。一連の犬モノでも、『紅い眼鏡』以外は所謂押井ストーリーの形式をとっていない。『パトレイバー』にいたっては、強引に『その名はアムネジア』を入れなくてはならないほど、アチラもコチラも出てこない。『P2』での「あの街が蜃気楼のように見える」という科白などから垣間見れるだけで、ストーリーの形式とは外れている。
ストーリー云々より寧ろ、作品時間の構成が似ているとは思う。イントロ~OPで事件の一端を象徴的に魅せて、時間の経過につれて事態が進展し、その事態を根底から疑わざるを得ない事件が起こり、事態をなんとか強引にでも収集すべくどこかへ乗り込んでドタバタ~とりあえずチャンチャン。時間を扱う表現作品では、時間操作が作り手に委ねられるため、受け手の都合で経過する進行速度をコントロールすることはできない。DVDなどで早送りはできても、ある1シーンを伸縮させることはできない。案外にこうした作品を見ている間のリズムが印象に影響するもので、作品内の構成リズムが似ていると、見る側は科白の進行によるストーリーを追う習慣ができているので、ちょっとした科白の同一性などで「似ている」と思いがちになる。
ちょっと待てと、それはストーリーの筋立てとどう違うんだ? ストーリーとは繰り返しになるが時間的には可変なのだ。同じストーリーでも、たとえば、自らを疑うようなシークエンスをえらい短くして、最後のドタバタを100分の内の70分やることだってできる。そうしたとしたらかなり印象の違う映画になるはずだ。ちなみに、この作品構成の押井作品を考えると、ストーリーの近似よりも該当確率はかなりあがるはずだ。『パトレイバー』劇場版2作品も『Ghost in the shell』、『アヴァロン』、『ストレイドッグ』もこの構成のはずだ。
といいながら、自分に対していちゃもんをつけてみる。『アヴァロン』も該当するだろうか? 大筋においてはかなりの該当率だが、ラストがどうにもとりあえずチャンチャンではない。フルカラー映像のクラスSAへ到達しマーフィーと再開、そしてこのクラスSAも可能世界であることを示唆され、次なるレベルへと向かう、のか? to be countinued... という感じで幕を閉じる。クラスSAをとりあえず現実としておいて安穏と暮らしてもいいが、マーフィーがこれまでのキャラクタと同じようにCGでモワワワ~ンと消えたこと自体、この世界もまたゲームとしての可能世界の一部であるととれる表現になっている。しかし暮らそうと思えばここも日常という現実世界として認識することも可能で、なにを以て現実なのかというこれまでの中でも述べたような、見る側と見られる側の認識世界の対比の構図がここにも現れている。
(以下(3)へ続く)

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notイノセンス?[前編]

いきなり根本から問うてしまうのだが、イノセンスというタイトルに違和感を覚えた方はどれぐらいおられるだろうか?
とりあえず、イノセンスを辞書で引いてみた。
 
in・no・cence
━━ n. 無罪, 潔白; 純潔; 無邪気, 純真; 単純; 無知; 無害;
三省堂「EXCEED 英和辞典」
 
なんでこんな意味合いの言葉がタイトルなのかさっぱりわからない。文頭ながら既にタイトルがどうしたこうしたなんてことがバカらしくなってくるが、タイトルなんてあってないようなもので、なんとなく響きがよければいいのかもしれない。
わからないといえば、キャッチコピー。「イノセンス、それはいのち。」っていわれても、なんのことだかさっぱりわからない。そしてテーマソングの“Follow me”。個人的には嫌いじゃないが、わざわざエンドロールで字幕出すまでのものだろうか。歌詞もさしてリンクしているようには思えない。
敢えて歌詞を考えてみると、女性が、話に聞いたかなんかですばらしい世界と思っている向こうの世界に連れてってくれってと、おそらく男(恋人かな)に頼んでる歌。以前に元はっぴぃえんどの松本隆が松田聖子の歌の作詞の際、あざといほどにセックスをテーマにしたら売れてビックリしたっていってたが(キッスいんとぅ~ヘーブン♪)、歌というのは恋愛の歌が多く、とりわけセックス的な意味合いが多い。押井監督が以前、『紅い眼鏡』をして、ないのはセックスくらいなものだ、みたいなことをいっていたが、素子とバトーの恋愛劇という要素でみれば、足りないセックス要素を補っている歌とも取れなくもない。
しかしこの2人の関係は先にあちらにいったのは素子、つまり女の方で、取り残されているのはバトーじゃないだろうか。バトーが犬的に地上を這い回っていて、素子はさっさと広大なネットの世界にいってしまっている。素子の意思、というポジションで考えれば、イノセンスってタイトルもわからなくもない。だとしたら、前作に当たる『Ghost in the shell』のタイトルであるべきだろう。素子が自らを同定せんがために、その可能性を求め、現実と目される世界からネットの海へと向かうのだから、その先にあるものが純粋なものかはわからないが、現在の我々の感覚としてはそれを純潔なるものと称しても、ニュアンスは伝わるのではないだろうか。
バトーはアチラへ行くことを望まないし、それを素子の対比として、所謂俗世的なものにこそ純潔が垣間見られると逆説的に捉えられなくもないが、そこまで穿った見方をしなければならないわけではないというのは、とりわけ押井作品はタイトルとは宣材以上の意味を持たないとでもいいたげなものばかりなことからも窺える。
 
無駄な述懐はここらへんで止しておくが、斯様な迂回から見えてくるものとは、それだけ形骸化されたタイトルとリンクするかのように、命とは対比的に捉えられがちな人形というモチーフが全面に押し出されている。
『Ghost in the shell』公開当初、自分はコミケデビューとなる評論『不完全性少女』において、義体と人形(四谷シモンやベルメールなどの所謂作家モノ)の関係性について述べた(先見の明があったと偉ぶるわけではないが、誰も何も言ってくれないのは哀しすぎた)。それはともかく、我々が抱きがちな、心身二元論的解釈からくる、人形と命の関係は、『イノセンス』という映画を観れば、そういった切り口で語れなくはないまでも、ストーリー的な大筋において全面的なテーマとはどうも捉えにくい。寧ろ、前作『Ghost in the shell』でも取りざたされている、身体の拡張、すなわち自己をいうものをどこまで同定すべきかという問題を巡る映画ではなかろうか。『イノセンス』でもバトーが手術台のような上で自らの腕を見つめるシーンがあるが、義体化された身体をオリジナルとして自らを規定する一部となりうるのかという疑念に対する示唆を1カットで表現している。
しかしこれは『イノセンス』を『イノセンス』たらしめている独自の映像言語ではなく、「攻殻機動隊」に通底するテーマだろう。『Ghost in the shell』では身体的拡張は意識レベルでの自己を基として、形骸化した身体を一種の拘束物かのように扱い、そこから離脱してネットワークの海の中で情報として生息(敢えて身体的表現をすれば)していることでそれは自己であると同定できることで、作品上の自己同一の結末を提示している。だからまるで『ボトムズ』のATのように乗り捨て的に、最後のタンクとのバトルでも、素子の義体がぶっ壊れる描写がゆっくりとしつこく描かれている。
一方『イノセンス』でもオープニングからセクサロイドが自ら胸襟を開いて中身を景気良くご開帳しているし、ラストの暴走セクサロイドとのバトルでも執拗にカラカラと人形がパーツごとに分断していく様子が描かれている。『パトレイバー』劇場版1作目で松井が鳥篭を踏むSEは鶏の卵の殻が砕ける音をサンプリングしたそうだが、あのカラカラカラという音に極めて近似した、ああいう技術の詰まった人形にしてはなんとも軽い音がする(セクサロイドということなら重くちゃ仕方ないのだろうが、だったら肌の質感が機械的でなく、高級品という設定からもしっとりとしているはずだから、なおさらカサカサお肌の硬質パックが剥げる様な音ではないはずだ)。
表面上は綺麗に装っていても中身はグロテクスですよっていう見せ方というよりも、殻の部分をみせるための対比としての中身のケバイ色合いと捉えられないだろうか。「自分は何者なのか」とかいう自らを如何に同定しようかという疑問、それは自らが疑っていることこそ自らがあるという証明であるというデカルト的な懐疑ではなく、物体を認識付ける外身、外殻ただそれ単一のみが存在を存在たらしめているのであって、それを目して「これは己なのか」という疑念こそ、そもそも自己を同定する材料でもなんでもない、というストイックすぎるような唯物的な考え方を感じてならない。
だから素子が情報の海にいようがいまいが、何らかの物質を通して感じ取れたことがバトーにとっては重要なのであって、バトーが自らを如何に同定しようかということそれ自体は、作中に殆ど描かれていない。自分が何者かということよりも犬との生活の方が大事なのだろう。脳の一部以外の殆どを義体化したキャラクタとして、生身や中身といったことは一種の権威主義的な取るに足らない概念に過ぎず、外殻に対して中身が優位であるということ自体が胡散臭いことなのだろう。証拠に、ラスト、生身の少女にバトーが説教をするシーンがある。精巧なセクサロイドのための、いうなれば生身の生贄なのだが、これだけみるとゆうきまさみ原作のコミック版『パトレイバー』のバドなどを連想させるような、少女買春の類の話で、被害者でもある少女を説教するという構図に違和感を覚える向きも少なくないようだ。しかしそれは先に述べたように、中身とか命とか、外身や外殻と対比して重要視されるという教育の賜物であって、生命という見地からみても、絶対的優位性は確固として確定はできない。繰り返しになるが、自己を同定するもの、人間が人間であると客観的にも主観的にも断定できる要因は、脳死の問題に限らず、肉体が精神に劣ると限ったものではないのだ。見えないからこそ、珍重され、時代によって、腹、心臓、脳と、一個人の人格を確定するとされた部位が変化しているのはなぜか? こういう話は本位ではないので以下省略。
バトーの説教の中で、人形の気持ち、といったニュアンスの言葉が出てくるが、バトーというサイボーグ野郎はキャラクタとして設定されているから“気持ち”という類の概念が科白としてセレクトされたのだろう。これまでの文脈から解釈すれば、「中身より蔑視される外殻というものが考えられたことはあるのか?」といったところだろうか。
多くの映画が主題とされるものとして、この中身の問題を取りざたしている。多くの流行歌が恋愛の歌であるが如くに。しかし映画がスクリーンに投影される現象であることへの問いは殆どといっていいほどなされていない。映画について語られる場合、その中身とされるもの(ストーリーなど)ばかりが取りざたされ、映画が観れていること映画という状況について考えられていたことはあるのだろうか?
ちょっと、バトーの説教を映画に敷衍してみたが、こう書くと非常に押井論っぽく聞こえる。こうした類のものを押井論として捉えられるのだとしたら、それは同時に映画論になりうるのは文意からすれば当然のことだろう。しかし前々からこうしたことに対して一つの疑念がフツフツと湧き上がってきていた。
 
「この手の押井論とされがちな文脈でどれだけ語られ、鑑賞として楽しまれているのだろうか?」
(続く)

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