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notイノセンス?[前編]

いきなり根本から問うてしまうのだが、イノセンスというタイトルに違和感を覚えた方はどれぐらいおられるだろうか?
とりあえず、イノセンスを辞書で引いてみた。
 
in・no・cence
━━ n. 無罪, 潔白; 純潔; 無邪気, 純真; 単純; 無知; 無害;
三省堂「EXCEED 英和辞典」
 
なんでこんな意味合いの言葉がタイトルなのかさっぱりわからない。文頭ながら既にタイトルがどうしたこうしたなんてことがバカらしくなってくるが、タイトルなんてあってないようなもので、なんとなく響きがよければいいのかもしれない。
わからないといえば、キャッチコピー。「イノセンス、それはいのち。」っていわれても、なんのことだかさっぱりわからない。そしてテーマソングの“Follow me”。個人的には嫌いじゃないが、わざわざエンドロールで字幕出すまでのものだろうか。歌詞もさしてリンクしているようには思えない。
敢えて歌詞を考えてみると、女性が、話に聞いたかなんかですばらしい世界と思っている向こうの世界に連れてってくれってと、おそらく男(恋人かな)に頼んでる歌。以前に元はっぴぃえんどの松本隆が松田聖子の歌の作詞の際、あざといほどにセックスをテーマにしたら売れてビックリしたっていってたが(キッスいんとぅ~ヘーブン♪)、歌というのは恋愛の歌が多く、とりわけセックス的な意味合いが多い。押井監督が以前、『紅い眼鏡』をして、ないのはセックスくらいなものだ、みたいなことをいっていたが、素子とバトーの恋愛劇という要素でみれば、足りないセックス要素を補っている歌とも取れなくもない。
しかしこの2人の関係は先にあちらにいったのは素子、つまり女の方で、取り残されているのはバトーじゃないだろうか。バトーが犬的に地上を這い回っていて、素子はさっさと広大なネットの世界にいってしまっている。素子の意思、というポジションで考えれば、イノセンスってタイトルもわからなくもない。だとしたら、前作に当たる『Ghost in the shell』のタイトルであるべきだろう。素子が自らを同定せんがために、その可能性を求め、現実と目される世界からネットの海へと向かうのだから、その先にあるものが純粋なものかはわからないが、現在の我々の感覚としてはそれを純潔なるものと称しても、ニュアンスは伝わるのではないだろうか。
バトーはアチラへ行くことを望まないし、それを素子の対比として、所謂俗世的なものにこそ純潔が垣間見られると逆説的に捉えられなくもないが、そこまで穿った見方をしなければならないわけではないというのは、とりわけ押井作品はタイトルとは宣材以上の意味を持たないとでもいいたげなものばかりなことからも窺える。
 
無駄な述懐はここらへんで止しておくが、斯様な迂回から見えてくるものとは、それだけ形骸化されたタイトルとリンクするかのように、命とは対比的に捉えられがちな人形というモチーフが全面に押し出されている。
『Ghost in the shell』公開当初、自分はコミケデビューとなる評論『不完全性少女』において、義体と人形(四谷シモンやベルメールなどの所謂作家モノ)の関係性について述べた(先見の明があったと偉ぶるわけではないが、誰も何も言ってくれないのは哀しすぎた)。それはともかく、我々が抱きがちな、心身二元論的解釈からくる、人形と命の関係は、『イノセンス』という映画を観れば、そういった切り口で語れなくはないまでも、ストーリー的な大筋において全面的なテーマとはどうも捉えにくい。寧ろ、前作『Ghost in the shell』でも取りざたされている、身体の拡張、すなわち自己をいうものをどこまで同定すべきかという問題を巡る映画ではなかろうか。『イノセンス』でもバトーが手術台のような上で自らの腕を見つめるシーンがあるが、義体化された身体をオリジナルとして自らを規定する一部となりうるのかという疑念に対する示唆を1カットで表現している。
しかしこれは『イノセンス』を『イノセンス』たらしめている独自の映像言語ではなく、「攻殻機動隊」に通底するテーマだろう。『Ghost in the shell』では身体的拡張は意識レベルでの自己を基として、形骸化した身体を一種の拘束物かのように扱い、そこから離脱してネットワークの海の中で情報として生息(敢えて身体的表現をすれば)していることでそれは自己であると同定できることで、作品上の自己同一の結末を提示している。だからまるで『ボトムズ』のATのように乗り捨て的に、最後のタンクとのバトルでも、素子の義体がぶっ壊れる描写がゆっくりとしつこく描かれている。
一方『イノセンス』でもオープニングからセクサロイドが自ら胸襟を開いて中身を景気良くご開帳しているし、ラストの暴走セクサロイドとのバトルでも執拗にカラカラと人形がパーツごとに分断していく様子が描かれている。『パトレイバー』劇場版1作目で松井が鳥篭を踏むSEは鶏の卵の殻が砕ける音をサンプリングしたそうだが、あのカラカラカラという音に極めて近似した、ああいう技術の詰まった人形にしてはなんとも軽い音がする(セクサロイドということなら重くちゃ仕方ないのだろうが、だったら肌の質感が機械的でなく、高級品という設定からもしっとりとしているはずだから、なおさらカサカサお肌の硬質パックが剥げる様な音ではないはずだ)。
表面上は綺麗に装っていても中身はグロテクスですよっていう見せ方というよりも、殻の部分をみせるための対比としての中身のケバイ色合いと捉えられないだろうか。「自分は何者なのか」とかいう自らを如何に同定しようかという疑問、それは自らが疑っていることこそ自らがあるという証明であるというデカルト的な懐疑ではなく、物体を認識付ける外身、外殻ただそれ単一のみが存在を存在たらしめているのであって、それを目して「これは己なのか」という疑念こそ、そもそも自己を同定する材料でもなんでもない、というストイックすぎるような唯物的な考え方を感じてならない。
だから素子が情報の海にいようがいまいが、何らかの物質を通して感じ取れたことがバトーにとっては重要なのであって、バトーが自らを如何に同定しようかということそれ自体は、作中に殆ど描かれていない。自分が何者かということよりも犬との生活の方が大事なのだろう。脳の一部以外の殆どを義体化したキャラクタとして、生身や中身といったことは一種の権威主義的な取るに足らない概念に過ぎず、外殻に対して中身が優位であるということ自体が胡散臭いことなのだろう。証拠に、ラスト、生身の少女にバトーが説教をするシーンがある。精巧なセクサロイドのための、いうなれば生身の生贄なのだが、これだけみるとゆうきまさみ原作のコミック版『パトレイバー』のバドなどを連想させるような、少女買春の類の話で、被害者でもある少女を説教するという構図に違和感を覚える向きも少なくないようだ。しかしそれは先に述べたように、中身とか命とか、外身や外殻と対比して重要視されるという教育の賜物であって、生命という見地からみても、絶対的優位性は確固として確定はできない。繰り返しになるが、自己を同定するもの、人間が人間であると客観的にも主観的にも断定できる要因は、脳死の問題に限らず、肉体が精神に劣ると限ったものではないのだ。見えないからこそ、珍重され、時代によって、腹、心臓、脳と、一個人の人格を確定するとされた部位が変化しているのはなぜか? こういう話は本位ではないので以下省略。
バトーの説教の中で、人形の気持ち、といったニュアンスの言葉が出てくるが、バトーというサイボーグ野郎はキャラクタとして設定されているから“気持ち”という類の概念が科白としてセレクトされたのだろう。これまでの文脈から解釈すれば、「中身より蔑視される外殻というものが考えられたことはあるのか?」といったところだろうか。
多くの映画が主題とされるものとして、この中身の問題を取りざたしている。多くの流行歌が恋愛の歌であるが如くに。しかし映画がスクリーンに投影される現象であることへの問いは殆どといっていいほどなされていない。映画について語られる場合、その中身とされるもの(ストーリーなど)ばかりが取りざたされ、映画が観れていること映画という状況について考えられていたことはあるのだろうか?
ちょっと、バトーの説教を映画に敷衍してみたが、こう書くと非常に押井論っぽく聞こえる。こうした類のものを押井論として捉えられるのだとしたら、それは同時に映画論になりうるのは文意からすれば当然のことだろう。しかし前々からこうしたことに対して一つの疑念がフツフツと湧き上がってきていた。
 
「この手の押井論とされがちな文脈でどれだけ語られ、鑑賞として楽しまれているのだろうか?」
(続く)

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