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杉並戦隊イレンジャー

いわゆる東映の戦隊モノといわれる、○○レンジャーは、なにかとパロディネタになってきた。あのSMAPでさえ、その昔、スマイル戦士音レンジャーというのをやってたほど。


行政がPR活動の一環として、この戦隊モノのパロディをやるってのも、そういう提案をする職員の年代なんかを考えると、まぁ納得は出来るし、柔らかい頭の行政というイメージアップもはかれる、なんてところじゃないかと。


で、三鷹市や杉並区あたりはこの手のオタク産業(いまでは萌え産業なんていわれるが、戦隊モノって萌えなの?)に前々から明るいし、土地柄もあるので、今更戦隊モノでPRといっても新鮮味はないのだが、この杉並戦隊イレンジャーのPRビデオを見て驚いた!
環境問題を視野に入れて、コンビニやスーパーのレジ袋を課税対象とし、マイバック持参を呼びかけてゴミを軽減しようという流れの中で、杉並戦隊イレンジャーが誕生したという。
杉並区のサイトからストリーミングや動画のダウンロードが出来る。話の種に如何?


http://www2.city.suginami.tokyo.jp/vod/vod.asp?genre=31


なお、同じページに「エコロジーエンジェル 環境派天使 スギナ☆ミライ」というのもあるが、こちらこそ萌えなるものではないだろうか? 恐ろしい気がしてまだ見てないが。。。どうでしょ?

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notイノセンス?[後編]

現実と虚構の境界がストーリー上曖昧なまま、釈然とした提案がされぬまま終わるのは、『アヴァロン』に限った話ではなく、多くの押井作品に通じる要素だろう。だから映画を観終わった後、劇場を出るのがとても面白いのだが(まるでアッシュが恐る恐る世界を覗くとフルカラーの世界になっていくように、鑑賞後は劇場の扉を開けて外に出よう)、『アヴァロン』は所謂ラストの着地点が作品の設定上、出発点とされる世界、つまり学園祭前日のような元いた場所ではない。元いた場所でないところで終わっていない、つまり行きっぱなし、さらにその先の世界を示唆して終わる作品は『アヴァロン』だけではない。あげれば『Ghost in the shell』『みじめ!愛とさすらいの母』があげられる。

実はこれらにはある共通点が存在する。世界を彷徨うのが女性なのだ。個人的な話で恐縮だが、『Ghost in the shell』以降、『イノセンス』をみるまでなにか座りが悪いというか、楽しみながらも釈然としないものを抱いていた。それまでの男性が主人公の作品は、ラスト、所謂犬死をするケースがある。『ストレイドッグ』の乾、『麿子』の犬丸などがまさにそれで、オヤジ要因として世襲のある『迷宮物件』ももうひとりの自分を捏造する必要のあった『トーキングヘッド』も一種の犬死だと個人的には解釈している。男はさんざん右往左往しながら、結局もとの場所に戻って地を這い回った格好で、結局何も変わっていないか、犬死で終る。女性はいったきりになってしまうのとこの違いはなんなのだろう。

自己の存在への問いからくる世界認識への疑念というものはあまり変わらない。しかし男の場合、その認識へいたる変化が自らを取り巻く事象の変化、つまり自らから発せられる疑念ではなく、周囲のキャラクタや世界の異変に巻き込まれていく形で仕方無しにとりあえずの決着を試みるのに対し、女は自らが認識への疑問を既に抱いているか自らが抱くにいたるかし、自らに決着をつけるために自発的に行動に出る。素子は言うに及ばず、アッシュは自ら本を調べたりネットで検索したりするし、あたるの母は世界の仕組みに気づくや開き直って夢の世界を遊ぶ。非常に行動力に満ちていて、殊更アッシュと素子はアチラへの関心が強く、変わることに対する迷いが殆ど感じられない。迷いがないということは葛藤が描かれることが少なく、言動が唐突になる。いきなり自己認識や世界認識に対する疑念を語れば、率先して戦場へ赴き一人で事態を全て収拾しそうな勢いでラストバトルへ臨む。『アヴァロン』などクラスSAへの条件がパーティーでなければ一人で向かいそうな勢いである。そこらへんの必然性は設定で補われてはいるものの、あの突発的な言動には戸惑いを覚えざるを得ない。

男主人公の場合は、周りが散々語ってくれるし、主人公が巻き込まれていく過程が映像として状況が描写されるので、時系列を追うように世界認識の変容がみてとれる。だから心理的状況が解せるように見ていられる。その点が自分の中でおそらく違和感となって現れたのだろう。

『BD』だったらサクラ(女!)をメインに事態の経過が描かれる。夢邪鬼も相当に語るが、あたる本人は殆ど世界認識について語ることはない。言動からみて把握はしていても語りはしない。『麿子』でも犬丸は語るが世界認識に対する疑念を語るのはもっぱら多美子や文明や伴内だ。『ストレイドッグ』は林、『P2』では荒川ときりがないが、主人公格で語る男は『迷宮物件』くらいだろう。しかし調査対象の男が主人公であって、最後に自らが主人公となっていたわけで、世界認識へいたる過程において語るのは主人公となる周囲の人間、この場合は被調査対象である<私>になる。

こういった語りのダイナミズムという現実から対比世界の開示へと繋がるカタルシスが押井作品の一種の醍醐味でもあるのだが、発語者が主人公でありその内在する想いを内に秘め、一人ごちるように、つまりは自らへの問いかけとして語る場合、その発語によってダイナミックに映画内時間が進行するわけではない。その内在する問いに対する回答を得んがための行動なので、周囲のキャラクタは巻き込まれる形となり、観客も衝動が判然としないままになってしまう。これが女主人公パターンに該当する。

始めの方に述べたように、この女パターンでは世界認識・自己認識への疑念によって女が向かう先はアチラ側の世界で元の場所ではない。いうなれば地を這う物語、外殻を巡る映画というものとは、対比される世界の描かれ方が変わってくる。即物的なマテリアルへと向かう視座で女の主人公はあり得ない。アチラがどうしたこうしたというストーリー上の問題ではなく、アチラを設定することで、目に見えるこの“モノ(事象・現象・図像とも)”との対比として描く方法論は押井作品といえどもそもそも女パターンでは成立しやしないのではないだろうか。義体への関心の薄い素子といった表現をしたが、『イノセンス』では対比される事象としてある人形そのものが『Ghost in the shell』では素子自身(認識しうる器)でもあったわけだから、認識への疑念が語りではなくうちへと向かう自問であって当然なのかもしれない。

しかし、とするならば、映画という眼前に映る現象として、『Ghost in the shell』とは如何様に捉えることが可能なのだろうか? それこそ個々人の鑑賞に対する感想として、極個人的なものでしかないのだが、所詮スクリーンに映る化学的現象であるという外殻的認識を以て映画と接する場合、観客という発語者とは逆の立場上、語りうるところを持てない。少なくとも観客として、目に映る現象に対して語る視座は、その作品世界という対比世界の中のキャラクタにあって、主人公の周辺にいて語りうる、観客であるところの自分と対比関係にあるキャラクタの世界認識に対する語りが殆どない場合、唐突という印象を持ってしか眼前の事象を把握できない。だから『イノセンス』を観たとき、バトーにとっての素子が少女の義体という視覚的対象であるように、観客である自分にとって人形という視覚対象ができて語る術を得た。

その語りとはイノセンスというタイトルから発する以上の発言となるわけで、それは視覚対象を巡る鑑賞方だった。斯様な道筋も、元の場所に戻る、つまりは文頭へと戻り循環する形式をとっている以上、この文章も男のパターンそのものなのだろう。

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