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ついに行ってきた『オペレッタ狸御殿』

狸御殿としては今作で7代目となるらしい。まぁその辺のことはオフィシャルサイトとか他の方も述べてると思うのでスルー。
ともあれ、前情報は入れない主義なので、オペレッタとついてることと、清順映画であることの2点である程度は覚悟は出来ていたはずだが。。。なのに「なんじゃこりゃ~」になってしまうのが、清順マジックとでも申しましょうか。歌と踊りだけでどう楽しめばいいのか、始めは取っ掛かりが全くつかめない。腹を決めていたはずの、時系列でないカット割やらストーリー運びは影を潜め、昔話のような単純なストーリーが行儀よく順序だてて進行していく。逆に予想を裏切られたというか、こう来られると見所のきっかけがないではないか!?
しかし物語の一定テンポのスムーズな展開に水をさすように、突然挿入歌が歌われる(敵と見方だったのに突然一緒にダンスしちゃったりするような)映画は基本的に大好きなのだ。どんなに退屈な映画でも歌と踊りがあると許せてしまう(例『ブルー○ルベット』)。そんな思いから、隙あらば歌って踊る、そのシーンを単純に楽しもうと決めた。始めはオダギリジョーとチャン・ツィーの惚れたはれたの歌ばかりだが、薬師丸ひろ子の局の歌あたりから、自分の決意はあってたかなぁと思い始め、ついに由紀さおり扮する、びるぜん婆の歌で決定的なものになった。
いや、この歌がスゴイ。由紀さおりは姉妹で童謡歌ってるだけのオバチャンじゃないのだ。この歌だけのために映画を観てもいいくらい。パワフルに際限なくバカバカしいことをやってのける。
そう、はっきりいってしまえばバカ映画。語弊があるが、ともかく全てがバカバカしい。どんな病も治す泣き声を持つ蛙が出てくるのだが、その泣き声たるやバカバカしさの最たるもん。デジタルで復活した美空ひばりも、よく加藤和也がOKしたな、というかひばり事務所的に大丈夫なのかと思うくらい危うい。まじめな一般のひばりファンは怒るだろうなぁ。。。なんて思いながら観ていたら、途中退場する年配カップルが。
話というかなんというか、そんなノリのまま、大団円で終了。実に実りのない2時間弱。
こんな表現をすると駄作のように聞こえるが、映画って実りがないといけないのだろうか? いわゆる感動作品なんかでも、人間性だとかメッセージ性だとかそういう訴えかけるもんみたいのがとても有難がられているようだ。確かにそういう考えさせられるってのもエンターテイメントだと思う。公式サイトのインタビューで清順監督がいっていたことでもあるのだけど、確かにそうだなと。じゃなければ先に述べた、退屈な映画でも歌と踊りがあると許せてしまう、なんてことはありえないから。
言われてみれば、実りのない映画で好きなものって過去にいっぱいあった。有名どころでは、ドリフの映画とか、無責任シリーズとか。ツボの部分では不良番長なんか実に内容がない。男はつらいよもそう。男はつらいよは、なんか泣ける。全然シリアスな、いわゆる今日の感動的な泣けるタイプとは異質の泣き。ホロっとくるというか。こういうバカバカしい泣きって意味なくていい。韓国のドラマや映画みたいな事故なんて、そうそう無い。こういうそこはかとない泣きこそ、なんかこう、身体の隙間にピッタリくる。この狸御殿でも、ぜんぜん悪く見えない平幹二郎が親で仕立てる人間燭台ってのが出てくるが、下手な差別的内容のリアルな悪より、なんだか重く思えてしまう。
歌や踊り、オペレッタという舞台性、そういった全くリアリティとは相反するところで、徹底的に虚構、嘘っぱちをやることで、間隙をつくように、漠とした何かがズシンとくる。昔、松本人志がなにかのインタビューで、本当のことのように見せて嘘をつくテレビ(恐らくドキュメンタリー番組の類だと思われる)よりも、嘘を重ねることで垣間見れるものがあるTVの方が好きだ、みたいなことをいっていたが、まぁ好き嫌いはあるにせよ、映画という嘘っぱちの世界では、嘘で重ねるつくり方の方が、やっぱり観ていて興味深いなぁと思う。そういうものの方が、10年20年経っても観たいと思わせてくれるし。
話は清順から離れて申し訳ないが、結局押井守の映画もそうだと思う。もっともらしい衒学的な薀蓄を並べて、さも真実を語っているようにみえて、ただ観客を当惑させたいだけ、という見解が強いようだ。でも、学術的と目されがちな言説に対して、そういったものが真実をつくような映画内の意味を示唆している、というのが前提にあって決め付けているだけなんじゃないだろうか。テレビの報道バラエティでもすぐ大学の教授に意見を求め、それが正しいような演出をするけども、そういう権威主義みたいな目を持っているから、映画内で孔子やらなんやら哲学的なセリフが出てくると、衒学的だなんだと面白くない、不愉快だと怒る。それはそういった言説に対してコンプレックスというか劣等感を持っているから、怒るんじゃないだろうか。それが単なる流行語的なものだったり、お笑いタレントのギャグだったらそういう反応はないんじゃなだろうか。
専門性が高いものは確かに知識がなければ難しい。でもそれが世の中にとって必要な研究だったりするから専門分野が存在するし、誰彼もわかるようなことだったら、そもそも専門分野なんて必要ない。それがわかることが特権的なんじゃなくて、専門書の類には一般書には変えがたいドラッグのような中毒性があることはあまり認知されていないようだ。その手の快楽を得られるのが勿論、偉ぶれることでもなんでもない。専門書に限らず、いろんなジャンルに、知らぬものは感じられぬ中毒性の高い快楽はあるはずだ。山男やヨットで世界一周する人の快楽は知り得ようも無いように。
なんだか、全てが平等になにもかも与えられなければならないという幻想があるようで、そういう偏った平等意識が、ややこしいことにさせてる気がしてならない。
映画『イノセンス』のセリフでわけ判らないものがあったとしても、わからなかった人は判らないままにしておく自由も調べる自由も持っている。調べる自由をして特権的とは全くおかしな話で、それを知ったことで快楽が得られたとしたら、映画を観て快楽を得るという限りでは、映画で歌と踊りを見て快楽を得ることと同義となるだろう。
思うに、イノセンスのセリフと狸御殿の歌と踊りは同じくらいバカバカしいものなんだろう。それがその映画を象徴している一つには変わりないが、それを理解することがその映画を理解することではない。だから、イノセンスのセリフを理解しても、イノセンスという映画を理解したことにはならない。ましてや、それが押井守の言いたかったことではないだろう。ネット上で、イノセンスのセリフを解説するページなんてのがあるが、こういうバカバカしい徒労は大いに賛成である。ただ、それをしてイノセンス(押井守)のメッセージ(意味)となるとおかしくなるわけで、参考文献を読む快楽があって、その上で平行して映画を観て快楽を得る。その意味においては非常に有効であるに過ぎない。
まぁすなわち、踊りだろうが哲学だろうが、非常にバカバカしいというか、それ以上でも以下でもないということであって、それも含めて映画というメディアの懐の深さというか、虚構メディアの可能性の一つなんじゃないだろうか。

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イノセンス~駄文

イノセンスのことでアチコチ検索かけていたら、コミケでは毎度おなじみ野良犬の塒にて、飯田橋で先月行われた講演会「『彩・選・単』塾 アニメ宗教学講座」(主催・NPOちんじゅの森)のことが紹介されていた。

時間の無駄なのだが、奇特な方は読んでみてください。

http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/kp50601a.htm


講演をすべてきいてない身で判断すべきではないのかもしれないが、これはなんなんでしょ?

なんというか、言葉もないが、宗教学という観点から、エヴァをして「旧約聖書「創世記」のアダムとイブを連想させる場面だ」とはお粗末この上ない。

分析ではなく観たまま。シーンの説明でしょ。

案の定、「攻殻機動隊」という設定から宗教の話になっていて、映画という視点がない。

こういう講座自体がどういうニーズがあるのかわからないけれど、チープ極まれり。

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