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不完全性少女考(3)

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3)“対”体験


素子が人形使いの融合の申し入れを受けた時にみたもの、それは天使だった。その後少女とされる義体に入るに至る。


・アニマ
河合隼雄によると、自己の全体性を表すものとして、対立物の合一のイメージがある。男性と女性の結合は、自己を象徴するのにふさわしいもので、西洋の場合、一度は分離された自我と自己は、それを結ぶ仲介者としてのアニマを必要とする。
アニマとは、男らしいペルソナを持つために男性の中の女性的な面として無意識界に沈む像である。女性の場合は、女らしいペルソナを持つための男性的なアニムスである。男性であれ女性であれ、潜在的可能性としては両性具有とするのがユングの特徴としている。
ユングは、夢を見たものにとって、夢の世界への仲介者がアニマであり、普遍的無意識そのものでもあるとした。また、アニマをグノーシス主義に於ける英知の女神ソフィアの「救済されるべき救済者」のイメージと重ねている。そして聖母マリアも、アニマの霊的な段階として典型とされる。母でありながら処女であるという、少女の清純さも合せ持つ。


・象徴のシステム
アニマは海(すべてを飲込むもの)ともされるが、聖母マリアが母でもあるように、母性には善母/恐母といった生と死が共生している。母なるものイメージは、なにものをも包み込み、自らと一体となる、普遍的な存在としてある。アニマ像として母が現れるケースがあるが、女性は母性を内包する。フロイトは、無意識とは広大な海で、人間の意識は海の水面に突き出る氷山の一角のようなものとした。これらから、ユングとフロイト、またはユング派とフロイト派の確執はともかくとして、

{無意識=海=アニマ=女性≧(母性=少女)}
という図式を導き出してみた。作品に翻ってみると、ハッカー(飲み屋の親切な男)が、逃走した水路の先で、光学迷彩をまとった素子にボコボコにされるシーンがあるが、あれは背景の新市街は無意識の海に浮かぶ氷山か・・・
メイン・タイトルOPのメイキングサイポーグで、素子の新たな義体が誕生する、生のイメージと、皮を剥いだ死体の如き、サイボーグのデスマスクが交錯し、触素形成液の中から浮上する義体は、水面に映り、素の鏡像と避週し(キスするが如く)、鏡像は波紋となって崩れ、顔のディテールが現れる。
ダイビングのシーン。フローターが作動して海面にあがるときも、鏡像と邂逅する(浮上までのプロセスはメイキングサイポーグと作画的に類似する)。ダイビング前は嘘の夢が消せない男の取り調べを凝視する素子(バトーはここで「疑似体験も夢も、存在する情報は全て現実であり、そして幻なんだ」という)からダイビングのシーンに入り、以後、素子は自己の存在に対して問いを立てている。
素子は新市街(9謀屋上)からヘリで、人形使いも新市街から車で、水没地区の、水没しかかった博物館にむかう。素子は浅い水の中のタンクと戦う。天窓のガラスが砕け(虚像が崩れる)、タンクの光学迷彩(ハッカーの光学迷彩参照)が破れる。そこから光(電子(ネット))が降り、天使が降りてくるようにみえる。
他にも枚挙に暇がないが、アニマ、つまり海的要因から、浮上する素子(もしくは天使)というシークエンスで埋め尽くされている。

・鏡

「今我ら鏡もて見る如く見るところ朧なり
 されど、かのときには顔を対せて相見ん」
これを聴いたバトーの間いかけに素子が答えず、背後を振り向く(カメラ(=鏡)自線。スクリーン=素子の視線)。そこには旧市街地に偏在する素子。
多田智満子は、鏡の語源は初め「影身」だと思ったが、「赫見」(赫す)だった、という。「影身」も一説にあるそうだが、『大言海』によると鏡は日像(ヒノミガタ)、つまり太陽のシンポルだった(太陽は照り、熱の光を地に降り注ぐ)。古代日本人は鏡を神の依代、つまり神像としたが、三種の神器の鏡は、万物を写して偽らず判別することから、知の象徴と為す、という説がある。また、鏡の古語はカタ(像)だった可能性があり、「賢明」の意の「カ」が出どこで、接尾語の「タ」がついたらしいが、「カ」は「上」を表す言語で、原形は「日」を表す。
海の水面などの鏡、そこから浮かぶ素子といったシークエンスの積み重ねの果て、死を想起させる人形のような自らの作り物としての身体をさらけ出した先に、指す光、天使の羽、そして少女の人形的義体へと映画は移行する。

・鏡像、童女
メルロ=ポンティはジャック・ラカンをして、

幼児にあっては、鏡像の了解とは、鏡の中に見えている姿をおのれの姿と認めるところにあります。幼児の世界に鏡像が入り込んでくるまでは、身体は幼児にとって、強烈に感じられはしても渾沌とした現実なのです。自分の姿を鏡の中に認めるということは、幼児にとっては、自分自身の視線spectacleがありうるということを学ぶことです。そのときまで、彼は自分を一度も見たことがなかったのであり、そうでないとしても、せいぜい身体の目に見える部分を眺めるという形で、いわば自分を盗み見たことがある程度です。ところが鏡の中の像を通して、彼は自分自身の観客たりうるようになります。幼児は、鏡像の習得によって、自分が自己自身にも他人にもみえるものだということに気付きます。内受容的自我から可視的自我への移行、つまり内受容的自我からラカン氏のいわゆる“鏡の中の私”ヘの移行は、パーソナリティの或る形態・或る状態から別な形態に移ることなのです。

といったが、ユングは自己のシンポルとして幼児をあげ、始原児と名付けた。義体が人形として象徴とされるように、人形は少女(童女)を模している。人形がデスマスクなどと死を喚起させるようなものとしても知られる。
本田和子は「童女は秩序社会の何処にも位置づかず」故に「人として扱われることの乏しい」「存在らしい」という。童女は神話などでは生賛など、代償として、「神と率寝(ゐね)る女」として、死ぬことが多い。本田はこうした童女をして「禊(みそ)ぎして潔められた聖少女の身体は、ただ一人の女神の前に己を透明化し、その神語(かむがたり)をあらわにすべく空無の器となる」、そして「一般に女性のものとされる「時の円環」、「生→死→再生」とめぐるそれは、少女によって無化された」とする。だとしたら、少女が概含としてあるから、我々が「神といえどもこの世界については、我々の経験と同じようなつねに完結することのない射映Abschattungの系列という形をとらない経験をすることはできない」(フッサール)から、全てを内包し(背負い)、超克するために、少女という幻想(義体)が生まれ、器としてのそこにそれ、少女を込めたのかもしれない。


[了]


■参考文献
・河合隼雄『無意識の構造』中公新書
・本田和子『少女浮遊』青土社
・多田智満子『鏡のテオーリア』ちくま学芸文庫
・夜想26「少女」ペヨトル工房


【初出:1995年12月30日】

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