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ルーズショットのニヒリズム~画の演出3前編

押井作品における主人公の女パターンと男パターンの違いは、構成やストーリーの違いと、映画を構成する様々のレベルでその違いが現れている。男パターンと女パターンについては、前掲「notイノセンス 」を参照いただきたい。
とはいいながら、画のレイアウトでみると、必ずしも男パターン/女パターンでは割り切れない部分が出てくる。寧ろ、『BD』以降/『P2』『イノセンス』パターン/『Ghost in the shell』『アヴァロン』といった分け方になる。『P2』までは明確にレイアウト的な描き分けが象徴的には感じられなかったが、以降、男パターンと女パターンで変化が生まれてくる。
素子 女性主人公が認識への問いかけをするとき、そのキャラクタが対話ながら自らに言い聞かせるようなシーンでは、キャラクタが背景から浮き出るような寄りの演出がされる。
このクローズアップはなぜか男性キャラクタでは殆ど見受けられない。『P2』以前の作品で印象的なのは、『BD』で♨から世界認識について語られるサクラが事態への認識を改めさせられる喫茶店のシーンで見受けられる。
サクラ サクラの場合、この後の行動から、このシーンで世界認識への疑念が生まれたことは容易に想像つくが、世界認識に対して自らが語りつくすことはしない。『BD』の場合、男主人公なので周囲が語る関係でサクラの疑念が自閉的でわかりづらいものにはならない。しかしサクラの心象は面堂や夢邪鬼に対してわかりずらくはある。
周囲が語らない『Ghost in the shell』の場合、このクローズアップの度合いが映画全体に充満している。『BD』でのタクシーの移動や『P2』での車での移動中の荒川のように、押井作品では乗り物での移動中にダイヤローグの形式をとった長いモノローグが多いが、エレベーターでの降下(上昇ではなく必ず降下なのだ)内というシチュエーションも多い。『P2』と『Ghost in the shell』で比べると、『Ghost in the shell』での寄りっぷりは一目瞭然だ。エレベーター攻殻
ここでも素子は自らの問いを吐露しているが、バトーに一蹴される。語りが内へ向かうと画角が窮屈になる。『P2』では柘植について質問され柘植と南雲の関係を案じさせるシーンだが、南雲が気を使いながらも柘植への想いを思い起こすシーンで、必ずしも自らの気持ちに対して否定的かつ自閉的なシーンではない。この点が素子との明確な違いで、この違いがハッキリとしているのは窓にある。
素子のシーンでは密閉型のエレベーターで構図も窮屈なのに対し、南雲のシーンでは外側片面の殆どがガラス張りで、画的にも外の映像が執拗に描かれている。
話の文脈や作品の世界観の描き分けでたまたま違いが出ているだけで、アニメは制作の制約上、顔のUPが多いだけなんじゃないか? と思われるかもしれないが、男/女パターンは画の構成を見ると割り切れないといったのはこれにある。つまり、『P2』以前というのは、制作費的にも技術的にもどこまで描けるのかを考慮してコンテを切って、レイアウトを決める必要がある。だからもっとルーズの画が欲しい点でも、別の演出で乗り切ったりする状況があったことは容易に想像ができる。男/女パターンで見分ける場合、その片鱗を『P2』以前の作品にみられても、その演出意図がはっきりと見て取れるのは『P2』以降となる。
ちょっと証明してみよう。エレベーターのシークエンスといえば、上記以外に『P1』で方舟をぶち壊す意を決する後藤と遊馬の会話があるが、この画も窮屈である。しかし内在的な心象が描かれているわけではない。問題はこのあとだ。エレベーターが止まり、エレベーターから出てくる、その出た先にあるものだ。『P1』は外で野明が待っている。『P2』では開放的な人の行き来が描かれたロビーフロア。そして『Ghost in the shell』では冷たい色合いの閉鎖的な通路!
男パターンではキャラクタのいる周囲の状況を含めたレイアウトで、極力外側を沢山描こうとしているのに対し、女パターンでは実にキャラクタの寄りが多い。シーンごとに見ても、かなりの割合で主人公が登場している。素子もアッシュも出ずっぱりである。それだけ、主人公がいない世界の描写がない、同時進行しているはずの他の場面の状況描写が少ない。ここらへんは『P2』が非常に顕著で、後藤や荒川や南雲がいないカットが多いことは多いのだが、群集を俯瞰した街のショットや人すらもいない風景描写が実に多い。つまりキャラクタがどうしたこうしたという描写ではなく、戦争という時間が演出された街の状況描写をこの映画に一貫した切り口として作られているからだろう。
ということは、顔のアップの多いアニメは技術的な制約が先かストーリー傾向が先か、どちらにしてもキャラクタがどうしたこうしたという作品ばかりということになるのではないか。ずばり、その通りで、制作者サイドもアニメファンもキャラクタの動向にばかりに関心が強いのではないか。
(・・・続く)

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