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異能生存の存在証明(4)~装甲騎兵ボトムズ再考

第1回  │ 第2回  │ 第3回



3.倫理における神の存在

ギリシアの古典哲学では、神という概念ではなく、徳・真理・善・知・福が大事だったみたいで、ソクラテスなんかの徳の研究 から、倫理学が創始されたくらい。
で、本質(永遠・不変)の世界であるイデア界と感覚界(現象界)という我々の、イデアを不完全な形で模倣(分有)した変化の世界という二世界説を展開したイデア論 がプラトン。エロスという魂のあこがれが、イデアを想起させるのだそう。有名なのが、3角形のイデアで、三角形の原形は内角の和が「2∠R」で、我々が鉛筆で書くときの線などない真の三角形。でも、我々はそれを知りつつも、実現することができない。
科学で取りざたされた問題は、往々にこうしたイデア的な問いであり、その解として神を宗教的世界観ゆえ、持ち出してきた。アリストテレス の四つの基本元素も、天界にある第五の物質、エーテル を含め、中世錬金術のエーテル(賢者の石)の探求を経、化学における定量的研究(量子力学など、原子、ニュートリノ の研究の流れ)のもととなった。
先に紹介した「自然発生の否定」の考えは、アリストテレスの「形相 」と同じで、イデア的な、超感覚的存在を否定し、発達・成長の原理を追及した。
以後、ヘレニズム、ヘブライズムを経、ローマ帝国期、ルネサンス、宗教革命へと移行する。こうした歴史的推移は皆さまの知るところでもあるし、取り立てることもないが、理性と信仰の合一、ドグマ の確立などに見られるように、神というものが漠としてあるため、トマス・アキナス神の存在証明 にしろ、ルネサンス期の人間中心主義までは絶対的かつ便利な信仰対象でしかなたったといえよう。
神中心の世界、世界を超越した神から、世界に内在する神(能産的自然スピノザ )という汎神論へと移行する。ちょうど自然科学の発達(コペルニクス/ガリレオ/ケプラー)により、知と信仰の分離も始まる。これはこうした時世もあるが、以前強く神に捕らわれていることは前章に述べた通り。やはり時世からか、政治、道徳、自由意志が人文主義では取りざたされた。宗教改革でルターカルヴァン が台頭し、特にルターは近代の個人主義・主観主義の源泉となる。
以後、神はその歴史ゆえ、表舞台には立たなくも、問題にはされる。しかしその程度ではあるといえる。故にニーチェ はある意味で「神は死んだ」といわなければならなかったのだろう。ちなみにニーチェのいう超人とはキリコ的ではない。超人とは人間にとって可能体であり、キリコはいわば天然となる。この超人のように、倫理の対象は人となり、その関係としての世界、さまざまな事象となる。神は語られなくなったわけではないが、神は相対的な対象でしかない。問題として、いわば絶対的な存在ではなくなる。

大雑把で不足の多い概要となったが、実際神との関係を見出すとき、結局は歴史的な問題となるので、近代以降は扱えない。イギリス経験主義として扱われるバークレイ なんかは『人間知識の原理』で「物体」の実体性の否定から、神と精神の実体性は確実なんていってるんだけど。経験主義のある種の先天的とされる観念の否定(見えているものを生まれる前からそうでると誰が断言できる?ことから経験的に知覚できないものへの極端なまでの懐疑に陥る)は、ある部分キリコ的態度といえる。が、キリコ的懐疑が顕著なのは現代思想を待たなくてはならない。先にレヴィ=ストロース について述べたが、彼以降の思想でキリコの異能者としての存在がある程度見えてこよう。数学の基礎論 が元で、思想界にすさまじい影響を与えた、ゲーデルの不確定性理論 がそれで、「数論の無矛盾な公理系は必ず決定不能な命題を含む」。分かりやすく曲解しちゃうと、なにかが「ある」ということを証明するなかに、謎の要素が必ず存在する、ということ。これまでの話の流れでいえば、宇宙の成り立ちを証明するなかには、ビックバンを引き起こす要因(神の見得ざる手)という、謎の要因が必ず絡んでくる。それを証明しようとすると、ビックバンを引き起こす要因は知りうることはできない、つまり「ない」という結果が導き出される。つまり「ない」のにビックバンを引き起こす要因が「ある」と思うのはどういうことなのかと。
つまり、「ある」はずのなかに実は存在性はなく、あるということを「ある」べき要素が決定できない。わけがわからないのだけど、この時点ですでに神を絶対的なものとして取りざたするのはナンセンスとなる。ないものなのにあると信じて疑わないのでは証明にならないから。その神を信じて疑わなかった歴史こそ科学のロマンティズムで、神が絶対的でないからこそ言えるお楽しみだったのだろう。
ここで『ボトムズ』に敷衍してみよう。「ある」という存在性だけで、ただ彷徨うキリコという存在が、権威が失墜したとしても体制としてあるアレギウムの世界にいたとしたら。地動説どころの話ではない。それは科学者的見地からいえば、異能者であり、教会的見地からいえば、触れえざるものとなって当然。異能者という点で見ると、異能者を見た後、ペールゼンはレッドショルダーをつくり、PSを開発する。この流れの面白いところは、卓越した能力を持つものの集団、つまりは(生身の人間という可能体からの)超人集団をつくろうとし、その次に人間兵器(超人的な超越ではなく、科学的に人間には肉体的に無理な限界を超えたを始めから創造してしまっている)という点にある。ゲーデルの証明はコンピュータなしでは考えられなかったものだし、コンピュータ的(人間に不可能なことをする意味で)なPSへと登る段階は不思議な符号の一致にみえる。実際、クローン人間、人工知能、人工生命の研究がされている。
ということは、現在の思考実験などから、キリコ的なものがみいだせ、さらにはそこからボトムズという作品が見えてくるんじゃないだろうか。


つづく...

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異能生存の存在証明(3)~装甲騎兵ボトムズ再考

第1回  │ 第2回



2.神と科学

哲学(というか倫理といったほうがいいな)みたいなところでは、神との関係は近代に至るまでよく知られていることだけど、それと同時に、科学の分野でも神との関係、というより対立があり、寧ろより深刻な問題だったみたいだ。ライプニッツカント をみても、科学(自然科学)との関係性は容易に見出せるし、それ以前に、神を前提としているような世界観では当然とも言えるだろう。宗教的な観念からいえば、超越的な事象はすべて神の御技だから、よくある話、宇宙の果ては? と考えるときでも、そこに哲学的命題も、科学的な証明も同時に神をとりだして考えることができる。というか、いくら考えてもわからない以上、神を持ち出すしかほかに彼らには術が無かったというほうが正確だろうし、それほど神というものが大きな位置を占めていた(これは信仰にあついというだけでなく、だしに利用して私欲に用いるとしても、方法としていちばん都合のいいほどに絶対的だったということ)。
で、ここでは仮に宇宙の果てを考えてみるとしよう。なまじ知恵のついた小学生や中学生がよく抱く疑問だ。ビッグバンによって宇宙が誕生したのだとしたら、その前は何だったのだろう? 宇宙の果てのそのまた向こうは何があるのだろう? 宇宙が生まれ、地球ができ、今自分がいるということは、もしちょっとでもこの歴史に誤差が生じれば、人間は、自分は存在していないんじゃなかろうか? 自分がいないということをどうして考えられるのか、なぜそう仮定して考えられるのだろうか? う~ん、我々はのんべんだらりと生きてきて、いまだこの解答が出せないでいる。で、科学者はせっせと仮説を立てて証明しようとしてたけど、わかんなくなると、神がやったんだってことになっちゃう。
話をボトムズに戻すと、この話の世界観でも神というのは西欧的な意味で用いられている。ATなどのテクノロジーが発達していることからも、「赫奕たる異端」での「すでに信仰などない」「だが権力がある」という言葉を引くまでもなく、科学と宗教は同時に、というか別物として存在する。我々の世界でもこれまで幾度となく人間の超越的存在としてコンピュータが扱われ、人間がコンピュータに未来では支配されるとまでいわれたが、コンピュータ、あるいは科学を神格化するのは、映画やアニメ、小説にもよく題材となる。ボトムズにおける古代文明、ワイズマンがコンピュータであることをかんがえても、以上のような位置でとらえられよう。
神の存在証明を科学的というのであれば、それをアニメで扱うとなれば、ロボットアニメという選択は当然といっていい(当然、科学とテクノロジーを分かつ必要があるが、詳細を述べる文脈はないので、柄谷行人の『批評とポスト・モダン 』を、世界と兵器の意味合いについてはヴィリリオ のテクストを、それぞれ参照されたい)。
科学のロマンティズム(神、理想を追及する、みたいな)を考えると、ペールゼンのPS計画、レッドショルダー、異能生存体と、ボトムズにおける神と科学の関係が明確になろう。
と、ここで、科学史の神への挑戦の歴史を見てみる。それにより、ボトムズの世界観がある命題を背負わされていることが見えてくるだろう。


-ギリシア世界では、太陽、月、惑星(水、金、火、木、土)まで確認され、地球は丸いってことまではわかっていた。が、天動説がとられていた。自然哲学自体はBC600からなされていて、アリストテレス により物質理論が説かれる。
デモクリトスレオキッポス による古代原子論では、物質は不滅とされていた。アリストテレス学派の考えが崩壊し、天文学が始まるのが15~17C。


コペルニクス

かなり敬虔なクリスチャンだったらしい。でも、キリスト教の説く天動説と、ギリシャ古典のアリスタルコス の地動説が全く逆で悩む。当時の宗教界の大スターマルチン・ルターに、聖書を冒涜する大ばか者とされる。それでも地動説にこだわり理論体系を確立するが、これが中途半端で、神の意志の現れである地球を宇宙の中心から外す、まではいいけど、依然として惑星は円を描くとしていた。神のつくった運動は完全だからと、惑星の不規則な運動を知りながらも、いいはっちゃった。


ブルーノ
宇宙はどの点を取っても一様であり、つまり中心はない、という宇宙原理を説いた。星は均等に分布するから、宇宙は無限といったが、森の木を星に例え、遠くにすき間が生じるはずだから無限ではない、というオルバースのパラドックスと矛盾するとされた(これはむちゃくちゃな対立で面白い)。
当時、ライプニッツは無限(神はそんなに了見が狭くない、という理由)、ニュートンは有限(無限なのは神のみ、という理由)といっていた。いずれにせよ、神が強引なまでの理由づけとなっている。今の我々からではただの笑い話だが、要はそういう世界だったのだろう。


ケプラー
すべての惑星は楕円を描く、といったひと。このことによって、キリスト教的宇宙観、地球中心、起動は円という二つの神の意志の現れが放逐される。つまり、宇宙から神が放りだされる。でも、神学を学ぶ彼は、これでは立派な牧師にはなれないと悩んでいたそうだ。


ニュートン
ケプラーの三つの法則と万有引力から新しい力学体系を完成させたが、にもかかわらず、神がまだ必要だった。惑星は皆動いているが、慣性の法則で動いているのしても、では何かが最初の原動力を加えないと動きださない。それを「神の最初の一撃」と呼んだ(彼は、自分の理論の背後に必ず神がいると確信していた)。以後、18Cではデカルト主義者の衰退(=神離れ)から、フランスを中心にニュートン力学を数学的に体系化する流れが始まる。それから、力学の自律性(神なしの力学)が問われ始める。

cf.1 18C末、ナポレオンのもとにラプラス の『天体力学』が献上された。ナポレオンは、この本には神のことが書かれていないと問うたところ、ラプラスは、自分の書物にはそのような仮説は必要ないといったそうだ。
以後、科学の目覚ましい発展により、人間が神になれると信じた人も多く現れるようになる。でもこれは、まだ、神の影響下の世界というものの力も案じさせられる。

cf.2 量子力学科学が人間の近くの及ばない範囲にまで及ぶと、また事情が変わってくる。素粒子の存在する場所は確率でしか言えない、波動関数の確率解釈があらわれる。ミクロの世界ではものがあったりなかったりしてくる。


アインシュタイン
波動関数の確率解釈を否定し、「神はサイコロを振りたまわず」といった。アインシュタインにとっては、宇宙などすべて、秩序をもたらすものがなければならず、それは神でなければならなかった。というのは、一般/特殊相対性理論(豆知識:相対性理論はガリレオ。間違えやすいぞ!)と並び、宇宙原理/宇宙定数(/宇宙項)を説いたが、宇宙定数は静的な宇宙(=常態。変態、つまり動的では解がでない)を前提とした。晩年、宇宙は神の意志によってつくられたから、その神の仕事を解明することが科学に課せられた使命であると確信する。


フリードマン
宇宙原理を、宇宙の構造は時間とともにかわるから、宇宙定数はないという、フリードマンモデルを提出した。


ルメートル
宇宙原理を、必要に応じて宇宙定数があると仮定する、ルメートルモデルを提出した。


ハブル
アメリカ、ウィルソン天文台で観測。ドップラー効果では、音の波長が長い遠くなる。光が(スペクトル)赤くなると光の波長が長くなることから、遠くなる、つまり、宇宙が膨張していることがわかる(観測定宇宙論)。膨張しているということは、膨張する先が未来。逆に縮小が過去であり、始まりが点であることが予測される。


ガモフ
宇宙の始まりを、火の玉のようなものの爆発による膨張、これを火の玉モデルとし、ビッグバンの元の概念となった。火の玉のようなもので元素が合成され、爆発によって宇宙ができるとするが、宇宙に何もないとするなら、火の玉というなにものかがあったことを前提とすることになる。


-ビッグバンの元の元の最初の点は誰がつくったか、神しかいない、という見解がまた出てくる。ゆらぎの概念で説明がつきそうだ、というが、自分は専門ではないので、最近のことはよくわからない。知ってる人、教えてください。


以上、駆け足で自然科学、とりわけ神との関係についてまとめてみたが、こうした神との関係において、三つの、底を同じくする考えが見えてくる。


1)保存……ものをつくれるのは神だけだから、いったんできたものはどう加工しても人間や神の力ではなくすことはできず、形を変えてどこかにあるはず。

2)オプティマルの原理……神は無駄なことをしないから、自然はいちばん経済的な振る舞いをするはず。遠回りをしているようでも必ず、エネルギー消費を最小限にとどめている。ハミルトンがきれいに体系化できたそのおかげとされている。

3)自然発生の否定……すべてに原因があり、自然にいきなり何かが発生することはない。想像は神のみ。病気にしろ、物理的な原因があるからという考えが、西洋医学を進歩させてきた。
こうした考えは、イデア的と言ってもいい。プラトンのイデア論 に関しては、後世に与えた影響ははかりしれず、殊に科学に至っては、そのロマンティズムからも容易にその影響力は伺い知れる。キリスト教の神学を学びながら、ギリシアの古典を読んだコペルニクスに、プラトンとキリストが同居している。多くの科学者に、乱雑な現実に、秩序的なイデアを見出そうとする姿勢は、共通して伺える。


と、ここで、倫理的見地から、宗教と神と科学についてみてみたい。


つづく...

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異能生存の存在証明(2)~装甲騎兵ボトムズ再考

第1回はこちら

 

1.西欧中心主義世界

TVシリーズを話の筋で捉えると、理由もなく彷徨うキリコが、フィアナという目標を見つけ、フィアナと戦争のない世界へ行くことで完結する。これをこれまでの既成のロボットアニメへの批判として考えると、批判どころではない、ボーイ・ミーツ・ガールの典型ではないか、といわれても仕方ない。確かにそれでは片付けられないものがあるのだが、知らない人に概要を説明したなら、「なんだ」ってなものだ。冒頭で、『赫奕たる異端』で筋が完結するといったのはそういう意味で、TVでは理由が付けられてしまったからだ。それはフィアナと出会ってからの問題で、それ以前、キリコが何故という理由もなく、彷徨っていることには回答されていない。そう、何故彷徨っているのか、という「何故」が問題なんだ。
因果関係で世俗的にごちゃごちゃ動き回っている。それがこれまでのロボットアニメであり、キリコの脇を固めるものだった(地球を平和にするため、金もうけのため、友情のため、信仰のため、権力のため、愛のため、とかね)。そういった目的がキリコにはないのは、OVA『野望のルーツ』ではっきりしてしまった。100年戦争時代に記憶をなくしたキリコに迫る内容だったが、結局その理由は定かにはならない。そして『赫奕たる異端』で、もとの、彷徨う、只そこにいるだけのキリコの状態に還された。
茶番ともいえる作品世界の中で、キリコは只そこにいるだけなのに、異能者だとか、様々な意味付けをされてしまう。因果という意味で、まるで意味がなければいけないみたいに。こうしたことは実は私たちの現実にも起っていたりする。それはポストモダンや構造主義を巡る状況に似ている。これっていうのは、すぐに意味とか人間性とかをキリスト教をだしにして、それを信じている人(キリスト教者)以外は認めない、みたいな風潮のこと。リオタールって人は『ポストモダンの条件』という本の中で、「大きな物語はなくなった」といってるんだけど、ここでいう大きな物語というのはキリスト教やマルクス主義のことで、世界史とかやってた人ならそこら辺は痛いほど分かってると思うけど、教会やその主義主張を巡って対立してきて出来た歴史だから、そこで自分たち中心の世界が出来上がっちゃった。だれもそれを批判する人がいないから、おれたちは凄い、おれたちは一番、でその凄さを植民地にまで押し付けようとした。それが西欧中心主義と呼ばれるものなんだけど、そういうのを見直そうとしたのが構造主義の言い出しっぺのレヴィ=ストロースって人。この人は未開の地へ行って色々と民俗(民族)的なことを調べてたら、そこには自分たち西欧人の常識とは違うことばかりで、これまで西欧人は自分たちが世界だと思ってきたけど、外から見てみたら色々ある習慣、習俗の一部に過ぎなんだな、てことに気付いちゃった。
当然こういう考えは西欧人にとっては都合悪いからレヴィ=ストロースは苦労しちゃうんだけど、感化される人もいるわけで、それでこれまでを見直そうと、いろいろと動きが出てくるわけだけど、それはひとまずおいといて、それまで西欧で支配的な考えっていうのは、キリスト教的な、一つを信じれば救われるんだ、とか、神のみぞ知る、とか、それからそういった考えを盾に、神がこういってんだからその通りにしろ、とかいって権力とか戦争とかしちゃう。アレギウム化してくる。
そう、アレギウムなんだ。アレギウムにとって都合の悪い、レヴィ=ストロースがキリコみたいなものなんじゃないか。ということで、西欧史が如何に神を理由としてきたか、その歴史を振り返ってみよう。


つづく...

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異能生存の存在証明(1)~装甲騎兵ボトムズ再考

お久しぶりで申し訳ない!

だいぶ前に書いたままだったシリーズだが、前回の冬コミ(69)で全文書いたので、分割してUPすることにする。とその前に、これまた昔に書いた文章から続く文脈にあるので、まずはそちらをUPしてから、「押井版『ボトムズ』~その可能性の中心」を再会したい。


今更ボトムズについて語るなんていうのは如何に機能的でないか、なんてことは分かり切っている。ただ、リアルタイムで体験できなかった悔しさから、持つもの(アニメなどの作品)は十年経とうが持つのだ、ということを意固地に表明したい。
で、今ボトムズについて語るっていっても何を語るのか。正直、私はボトムズに関する評論の類いを読んだことがない。当時の世情を考えれば、ボトムズのような作品だったら評論まがいのものがたくさんありそうだが、オタクがまだ地下的であったからか、表面上には残りにくいらしい。だから、放映当時小学生で、裏の『クリーミーマミ』を見ていた少年がそれから十年の時を経て目撃した感覚で語られることとなる。
そこでポイントとなるのはOVA『赫奕たる異端』が完成されているということだ。これは意外と重要な意味を含む。私と同じ見解を持つ人も多いらしいけど、ボトムズの話の筋を追っていくと、TV版最終話ではなく、『赫奕たる異端』で完結していると考えているからだ。なんでそう考えるのか・・・そこに至る経緯も含めて、キリコは何故歩き続けなくてはならないのか、という大胆にも核心的な問題を扱っていくつもりだ。


0)提起

「なんだかボトムズって他のアニメと違うよね」なんて見た人は少なからずそう思うと思うんだけど、そこが魅力的というのは大方間違ってないだろう。じゃあなんで他のアニメと違うのか。先ず暗い。しかし当時のアニメは設定、テーマが暗いものが多かった。主流はロボットアニメという時代を考えるとサンライズの時代で、富野、高橋ともに差はあれ、これまでのアニメとは違った、暗いと形容が出来るテーマを盛り込んでいた。その中にあって、ガンダムとは違う意味で異様な持久力をボトムズが持ちえたのは、特異な物語性に多く依るんじゃないか、と睨んでいる。
設定の時点で、多くのロボットアニメが戦争を舞台にしているのに対し、話の本筋は戦争が終わったところから始まる。ちょっと深読みの出来る人だったら、これまでのロボットアニメへの、殊に富野作品へのアンチテーゼとも、戦争という状況を語るために戦争の外部から語るという方法をとっている、と解釈するんじゃないだろうか。この解釈を裏付ける要因として、よくあるロボットアニメは、主人公が少年で、戦争に巻き込まれることで成長していく、というような青春ものが多いが、キリコは地球のためでも平和のためでもなく、「だから大人は」とか、愛やら正義やらの大義名分のために「でりゃー」「どわー」いったりしない。キリコは単に「先を急いでる」。私が一番この作品で目を引くのはこの点にあったりする。
こうしたキリコを際立たせるかのように、バニラやココナ、イプシロンなどの脇役は浮いて見えるほどに、これまでのアニメ的な言動を見せる。先にあげた様なキリコの態度に対しイプシロンは説教をするし、バニラやココナは世俗的で、金や恋路や義理人情の話ばかりでとても感情的に描かれている。『赫奕たる異端』では確信的すぎるほど、モンテウエルズ枢機卿は名誉と権力に飢えている。マーティアルを巡る権力闘争、そこには信仰は既になく、支配的な教会権力を巡る争いがあるだけ。案の定キリコは興味ない。ラストで再生したアレギウムを全く無視して歩いていくキリコは象徴的だ。
これまでのロボットアニメ的な既成の要素がボトムズでは滑稽に描かれているように(=茶番)、「赫奕たる異端」では宗教が世界的に展開することによってキリコが世界から隔絶されたような図式が浮かび上がってくる。ここまでの文脈から考えると、アニメを巡る状況が10年を経て、ファンが信仰のようにキャラクターを捉えるという現象が激化した、そのことへの警鐘、と捉えて結論付けるのは簡単だ。しかしそこにはアニメそのものへと肉薄する問題が私には見えてくるのだ。


(2)へつづく...

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