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異能生存の存在証明(2)~装甲騎兵ボトムズ再考

第1回はこちら

 

1.西欧中心主義世界

TVシリーズを話の筋で捉えると、理由もなく彷徨うキリコが、フィアナという目標を見つけ、フィアナと戦争のない世界へ行くことで完結する。これをこれまでの既成のロボットアニメへの批判として考えると、批判どころではない、ボーイ・ミーツ・ガールの典型ではないか、といわれても仕方ない。確かにそれでは片付けられないものがあるのだが、知らない人に概要を説明したなら、「なんだ」ってなものだ。冒頭で、『赫奕たる異端』で筋が完結するといったのはそういう意味で、TVでは理由が付けられてしまったからだ。それはフィアナと出会ってからの問題で、それ以前、キリコが何故という理由もなく、彷徨っていることには回答されていない。そう、何故彷徨っているのか、という「何故」が問題なんだ。
因果関係で世俗的にごちゃごちゃ動き回っている。それがこれまでのロボットアニメであり、キリコの脇を固めるものだった(地球を平和にするため、金もうけのため、友情のため、信仰のため、権力のため、愛のため、とかね)。そういった目的がキリコにはないのは、OVA『野望のルーツ』ではっきりしてしまった。100年戦争時代に記憶をなくしたキリコに迫る内容だったが、結局その理由は定かにはならない。そして『赫奕たる異端』で、もとの、彷徨う、只そこにいるだけのキリコの状態に還された。
茶番ともいえる作品世界の中で、キリコは只そこにいるだけなのに、異能者だとか、様々な意味付けをされてしまう。因果という意味で、まるで意味がなければいけないみたいに。こうしたことは実は私たちの現実にも起っていたりする。それはポストモダンや構造主義を巡る状況に似ている。これっていうのは、すぐに意味とか人間性とかをキリスト教をだしにして、それを信じている人(キリスト教者)以外は認めない、みたいな風潮のこと。リオタールって人は『ポストモダンの条件』という本の中で、「大きな物語はなくなった」といってるんだけど、ここでいう大きな物語というのはキリスト教やマルクス主義のことで、世界史とかやってた人ならそこら辺は痛いほど分かってると思うけど、教会やその主義主張を巡って対立してきて出来た歴史だから、そこで自分たち中心の世界が出来上がっちゃった。だれもそれを批判する人がいないから、おれたちは凄い、おれたちは一番、でその凄さを植民地にまで押し付けようとした。それが西欧中心主義と呼ばれるものなんだけど、そういうのを見直そうとしたのが構造主義の言い出しっぺのレヴィ=ストロースって人。この人は未開の地へ行って色々と民俗(民族)的なことを調べてたら、そこには自分たち西欧人の常識とは違うことばかりで、これまで西欧人は自分たちが世界だと思ってきたけど、外から見てみたら色々ある習慣、習俗の一部に過ぎなんだな、てことに気付いちゃった。
当然こういう考えは西欧人にとっては都合悪いからレヴィ=ストロースは苦労しちゃうんだけど、感化される人もいるわけで、それでこれまでを見直そうと、いろいろと動きが出てくるわけだけど、それはひとまずおいといて、それまで西欧で支配的な考えっていうのは、キリスト教的な、一つを信じれば救われるんだ、とか、神のみぞ知る、とか、それからそういった考えを盾に、神がこういってんだからその通りにしろ、とかいって権力とか戦争とかしちゃう。アレギウム化してくる。
そう、アレギウムなんだ。アレギウムにとって都合の悪い、レヴィ=ストロースがキリコみたいなものなんじゃないか。ということで、西欧史が如何に神を理由としてきたか、その歴史を振り返ってみよう。


つづく...

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