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映画『立喰師列伝』雑感~その2

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立喰師列伝 通常版 DVD 立喰師列伝 通常版

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今回も冗長とか衒学的とか言われ兼ねないマシンガン・ナレーションが展開されるが、これまで多く押井作品を評して語られる種類の哲学的とされる言説とは一線を画している。簡単に言えば、キャラクタが論じる自らの存在や世界に対する問い掛けは、作品や物語、引いては映画に対しての自己言及的な弁論ではなく、食べるという状況(食そのものではなく)に対して述べられている点だろう。
そんなこと見れば一目瞭然で、わざわざここで自分が述べるべき事柄ではないのだが、過去幾度か述べてきたように、押井作品を殊更愛好する輩は哲学的論及と安易に目されやすいセリフ回しが好きなのだと思われているようだし、事実妥当する言説も多くある。最近はこういった映画に対してどうこうと話し合うような環境から遠くはなれたため、『立喰師列伝』が斯様な層に概ねどう評価されているのか知る由も無いが、そういった向きには些か消化不良というか、楽しめたけど、完全燃焼できなかったのではないだろうか。そう思うのは、前述の通り、そのマシンガン・ナレーションの内容が食べるという状況を巡るそれだったからだ。
自分が過去幾度か述べてきた事例というのは、自己言及やそれを巡って構成された作品構造を殊更に取り上げるあまり“それによって見えてくるもの”を見失っているのではないかという指摘に他ならない。なんで自己言及なのか、なんでメタフィクションなのか・・・映画が映画であるその属性にこそ、映画でしか出来ない快楽があるはずだ。小説やマンガで代替できるカタルシスであれば、わざわざ映画にする必要は無い。映画じゃなきゃならないこと、それを巡ってキャラクタが、構造が、自らを構成する映画について言及すること、その瞬間こそ、映画が起立するんじゃないか。その瞬間の気持ちよさを、人は映画に見出しているんじゃなかろうか。
もちろん、マシンガン・ナレーションが発語という音としての響きのカタルシスはある。その文意を理解しようとしまいと、日本語の語感としての気持ちよさがあるはずだ。この映画に限らず多くTVなどでもクレームとして「意味がわからない」「なにを言っているのかわからない」があるが、世の中全て所在がはっきりしていればいいというものではない。聞こえなくてもいい、見えなくてもいいという瞬間があるはずだ。耳を澄ます、目を凝らす、もしくは聞こえるか聞こえないか、そのあやふやな間を愛でるという、日本人が得意であったとされたはずの“間”の世界はいつしか押しやられ、なんでも明瞭がよしとされる傾向は如何なものか。
閑話休題。語調としての気持ちよさは、劇中でも次第に講談口調のナレーションになったりと、恣意的なのか、随所に感じ取れる。よく聞こえなくても意味がわからなくても、気になれば2度見ればしいのだし、後で調べればいいのだし、それくらいのユトリというか自由度が映画にはもっとあっていい気がする。映画見るのに、ちょっと聞こえないとか文意がつかめないくらいでギスギスしたくない。
こうしたカタルシスが押井作品の魅力の一つではあるが、どこか意味というか理由付けをしないと腑に落ちない。というか、理由付けをすること=作品を理解することが押井作品の評論であるということに堕しかねないというのが指摘した危うさである。理解する自由があるのは当然だが、その見方だけが全てではない。
とはいえ、劇中で語られる言及には、食という状況にまつものでありながらも、これまでの押井作品に似た語られ方をする部分もなかったわけではない。フランクフルトの辰の述懐がそれである。
 
つづく...
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映画『立喰師列伝』雑感~その1

その1  | その2  | その3 | その4(オマケ)

以下の『立喰師列伝』 に関する雑感は、自分の食べ歩きブログ で発表したものをちと加筆・訂正したもの。その後、未発表の文章を逐次UPしていく予定。


それにしても、蕎麦の不味そうなこと不味そうなこと!
戦後から語り継がれるプロの立喰師の偽昭和史をドキュメンタリー方式でコミカルかつクドクドしく描かれる映画なもんで、その舞台はガード下のコ汚い立喰そば屋だから、藪とかそういう一チョ前の蕎麦であるはずもなく、不味そうに見えて当然といえばいえる。
で、実際映画の中でも不味いことになっている。そばを提供する店のオヤジが「たかが蕎麦じゃねぇか」って自分で不味いと思って作ってるんだから、余計にタチが悪い。劇中のセリフにもあるように、八方ふさがりな状況である。とはいえ、曲がりなりにも食べ物が中心になっているのだから、次第に旨いものになっていく過程をドラマとして描くとかして、仕舞には旨そうになっていくものだが、食べ物の味自体についてはついぞ問われることはなく、最後まで蕎麦は不味そうなままだ。
それは、食べ物そのものではなく、食べるという行為、食べ物のある状況を、食べものを通してみえてくる風景を巡る映画だからなのだが、これまでの数少ない映画鑑賞歴から考えても、不味そうな映画はこれと『コックと泥棒、その妻と愛人』をおいて他に知らない。


俗に人間の三大欲求などといわれるものに伴う行為ってのは、どうにも間抜けというか、端からみてみっともないというか、動物的といえるような、実に人間の本来の姿であって、そもそもが浅ましくも卑しい存在なのだろう。そんな動物的に好き勝手やっていると、一人ならいいけど、沢山の人が共存する中では、他人同士が上手くやっていけないので、社会というか秩序を設けなくちゃならないんだろう。
人間元来がいい加減に出来ていて、それを否定することで協調を尊ぶのが社会であり、それを肯定するものが芸術である、というのは立川流家元の言だが、まぁ生き物を殺生して生き延びているんだから、人に胸張って堂々と言える行為じゃないなぁ。

それを社会的に正当化するにはいろいろ御託というか能書きを垂れないといけない。『コックと泥棒・・・』の主人公のオッサンは金持ちでグルメっぽいんだけど、高級レストランで下品な話ばかりしてるし、厨房じゃ豚とかバカバカ殺した残骸が転がってて、見た目は鮮やかでも内蔵ぶちまけたみたいな撮り方をした料理が供される。オチはまぁ一種のカニバリズムなのだけど、食ってのはこういうことなんだろうと。


『立喰師列伝』に戻そう。戦後の闇市の蕎麦は混ぜもんだらけで凡そ蕎麦といいがたい代物だったらしい。それでもちょっとでも蕎麦っぽいというだけで蕎麦食ってる気になれる。その気になれるってことが重要だったのだろう。
ラーメンの麺だって、工業用の苛性ソーダや、洗濯ソーダ(重曹)がかん水代わりに使われていた。ラーメンといえばかん水臭くないとラーメンという感じがしないという人もいるわけで、そういうちょっとした日常の食の嗜好からでも、戦後がそこに横たわり、そうした歴史の上に現在のかん水臭くない麺が成立していると感慨深く思う想像力は十分に働くだろう。


そんな混ぜ物からみえてくる風景は、実際に目に見える光景からも伺える。現在そのラーメン屋が建っている場所は、街は、以前なんだったのだろう。
飲食、とりわけラーメン店は不動産物件として臭いや脂の問題から空きがあってもラーメンはダメといったように、なかなか貸したがらない物件とされている。だから余程特殊な状況でない限り、幹線道路沿いなど余程広い土地でないと借り手の難しい立地だったり、水商売のお店が多い一角で他に行き場のない訳有が集う場所に集中しがちだ。特に東京では後者のケースがかつては多く、訳有でなくても、歴史的にそういった業態を受け入れやすい土地というのはある。大抵そういった土地というのは、三業地であったり、赤線があった場所であることが多い。


自分が食べ歩きに際して、土地や建物、その街といっしょに捉えているのは、食べ物を通して具体的にも概念的にもみえてくる風景というものに惹かれるからに他ならない。その意味で、映画『立喰師列伝』は自分が様々のことに問いを立てるようになった15の頃より抱いていた見方を見事に表現してくれた。できることなら、15の自分に会っていってやりたい。――まぁいろいろ世の中とうまくいかないことも多くて折れそうになるだろうけど、その都度オマエが決断してきたことってのは、そんなにブレてないぞ――


――――――――――


次から、映画論的(?)な方向の雑感を続けたい つづく..


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異能生存の存在証明(6)~装甲騎兵ボトムズ再考・最終回

第1回  │ 第2回  │ 第3回  │ 第4回  │ 第5回




・ボトムズ的ハーフミラー

さあ核心に迫ってきた。キリコは何故、記憶を自ら思い出そうとせず、もしくはそういう思い出せない設定とされ、ただ彷徨っているだけで終わってしまったのか。彼だけが、歴史を背負わず、世界に相容れない異能者として、はじめから不完全性を証明する存在するのだとしたら、どうだろう。
歴史は、過去を証明する形で人々に付与される。ただ漠として、ビッグバンから現在の自分がいることの存在証明としている。過去が観測によってかえられるとすれば、人々の記憶そのものが疑わしいものとなってくる。記憶、あるいは記録というものが過去を証明する手段になっている(光源を見たという記憶、観測という記録、昔あそこに何々があったという記憶、地層からその地に以前何々があったとする記録)。
以上、現在・過去・未来という時間感覚のなかでは何を証明したところでそれは不完全なものでしかない。アストラギウス銀河の歴史然り、アレギウム然り、100年戦争然り。ロッチナでもペールゼンでもそういった歴史(世界史/自分史、体系)というあいまいな記憶の上で、あの世界の有り得べき一キャラクタとして、存在している。アレギウムなどは、信仰という崩壊まで揺らぐことのないハーフミラーをおいた歴史そのもので、ある意味、キリコがそのハーフミラーを壊したとも読める。
とすると、キリコが異能者たる所以というのは、ハーフミラーを持たないということになる。記憶をなくしている、歴史的体系を持たないのだから。不完全を地で行く彼はやはり、科学的体系の外にあるから、イデア論的な存在としては立現れず(レッドショルダー、PSはその点で頓挫している)、不完全な存在として、たとえば、レッドショルダーとしては不適当とされた。これらの仮説を妥当とすると、世界、存在といったものの不完全性の証明なのだから、どこぞのアニメみたいに「補完」とかそういう問題ではなくなってくる。そういうキリコのような存在は、アニメ(ビデオ/フィルム)のような記録媒体で保存されている時点で、記録・記憶の産物のなかのものだし、作品世界でもそのような不完全性の証明される土壌がない(アレギウム崩壊で大騒ぎなご時世だし)のだから、そりゃ、存在してはいけない。だから、時には異能者で、時には触れえざるものなのだ。
おや、では、彼をそういうふうにどうして規定できたのだろう。彼に対する他者のハーフミラーってどうやっておかれていたのだろう。いくらイレギュラーとは言え、その歴史上に存在していたことは確かだ。100年戦争の末期、フィアナに出会って、フィアナが死ぬまでの間は、世界の表舞台では知覚されていたのだから。
・・・そう、フィアナだ。フィアナと出会うことで、彼は様々に邪魔されるのだ。先を急いでいるだけなのに。先に現世利益みたいなことをいったけど、愛欲みたいなものが現世みたいな部分をつなぎ止めていたのかもしれない。とすると、フィアナがハーフミラー的役割を担う存在ということになるのではないか。キリコの不完全性はハーフミラーをおかない、記憶・記録のいうなれば向こう側の存在だが、それを証明(我々が確認、つまり知覚)するにはハーフミラーが必要で、ハーフミラーをどうおくかという、ハーフミラーそのものが非常に重要になり、現段階の我々では、ハーフミラーを置くということでしか視覚できず、手に触れられるもの(我々の手の及ぶ範囲にある媒体)から扱ってみるしかない。だって、ハーフミラーがなければ、記憶というもの、不完全性は立現れないのだから。アレギウムにとっても、ハーフミラーがなければ、異能者を触れえざるものにする必要はない。観測が過去をかえるのなら、ハーフミラーがなければ、キリコはマーティアルにとっては存在するはずもないものなのだから。
と、いうことは。そう、フィアナこそが触れえざるものだったのだ。


[了]


参考文献:
D・R・ホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』
JOCXTV+「アインシュタイン」
柄谷行人『批評とポスト・モダン
P・ヴィリリオ『速度と政治』

 



【初出:98年5月5日】

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異能生存の存在証明(5)~装甲騎兵ボトムズ再考

第1回  │ 第2回  │ 第3回  │ 第4回


4.異能生存の証明

キリコは死なない。この事実に驚愕したのがペールゼンであるが、人間は死を前にすると、もろく、はかない。未来、異なる惑星に開拓、移住となると、人間ではもろく、コンピュータ生命が人間のつぎなる生命となる、とされるのは定説であるが、進化として考えるなら、死なないというのがその絶対条件となるだろう。このような現状にともない、さまざまの思考実験がされているが、キリコが記憶を失っているというのも何やら記号的だ。
現在の量子力学では、突き詰めて考えると、人間が宇宙をつくったのではないか、とまでいわれている。人間原理宇宙論というのがそれで、この宇宙は人間にとって都合が良すぎることから考えられている。確かにビッグバンから現在、遡って考えると、ちょっとでも違っていたら、人間はいないのだし、いかされているともいっていいほどだ。で、この都合のよさというのは、


1-重力定数
2-強い相互作用の大きさ
3-電荷の基本的大きさ
4-光速度の定数


によるそうだ。過去これまでの観測を遡ると、こういう考えができるのだが、実際どうだったかなんてのは、証明されてから翻ってみるから納得しているだけで、タイムスリップしてみないかぎり、はっきりはしない。歴史の証明の筋道をたどるから、人間がいる一本道の歴史ができるのであって、振り返ってビッグバンまでの筋道を見なければ、人間はもしかしたらいないのかもしれない。記憶することによって、人間は今存在しているのかもしれない。
1979年、テキサス大学のジョン・ホイーラー は思考実験のための簡単な試験装置を作った。

※以下は簡略化したもので、正式なものはコチラを参照 されたい。


条件1:光はハーフミラー1を通って二つに分けられ、鏡1と2で反射され、再びハーフミラー2で一つにまとめられる。

条件2:例え光子が一つしか出ていなくても、量子力学の考えでは確率的に経路AとBの間のどこにでも存在しうるため、ハーフミラー2で、それらすべての常態がまとめられ、AとBどちらでも光を見る。

【画像はクリックで拡大!】

思考実験-条件  

実験1:ハーフミラー2を外す。光はまとめられず、光子は単独の粒子として振る舞う。AかBどちらかだけが光を見る。

実験2:光子が鏡を通りすぎたあと、素早くハーフミラー2をさしこんだらすでに光の粒子は鏡に反射され、光子が単独であることが確立してしまったのに、AとBどちらも光を見る。

思考実験-実験結果

∴人間はいつハーフミラーをおくかによって、いったん確立された歴史を過去に遡ってかえることができる。観測は過去をかえる。


光の歴史と宇宙の歴史とでは、量子力学的に記述されることにかわりはないのだから、我々が宇宙を観測し、宇宙の始まりにまで遡って、我々の都合のいいように決めてきた、ということになる。なんだかこれだけきくとど偉いことのように聞こえてくるが、最初の子供的な疑問に戻って考えるとそうでもない。
たとえば、学校の帰り道、ゲーセンに行こうか、古本屋に行こうか迷うとする。そして古本屋にいくと探していた本がたまたま見つかってラッキー! その夜思い返してみると、もしあそこでゲーセンに行っていたとしたら、自分は今どうなっているだろうと。もし無意識に古本屋を選んでいたとして、かつあげにあわないで、掘り出し物を見つけられたからラッキーだったという理由を、後から因果関係として動機づけたら、古本屋に行ったことが証明され、彼の歴史の筋道はつくられる。
非常に現世利益的で申し訳ない例えだったが、損得というハーフミラーを設置することで、歴史はつくられ、逆に、別の視点、現在ヤンキーで、あそこでかつあげにあっていたからという理由にしておけば、彼のヤンキー史が綴られるわけだ。


あと1回! つづく...

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