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映画『立喰師列伝』雑感~その3

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気づくとディズニーランドについて考えている自分は、西武園の観覧車の中でもう一人の自分との自己対話に興じる。今作の画的な見栄えが『迷宮物件FILE538 』に似ているということもあるが、殊更このシークエンスは迷宮物件を髣髴とさせる。
監督自身が語るように(監督が言っているから正しいというわけではない。あくまで監督自身の述懐として参照するに止まるのだが)、安保の季節以降については語るところを持たないというように、FCがその舞台となる牛丼の牛五郎以降、老獪極まりない薀蓄は陰を潜め、過去の自作群を模倣するかのように、ストーリーの追える筋の通った時間が流れるようになる。
この後半部分は、映画に引き込まれるように観れるし(監督の演出家としての仕事が発揮されている瞬間といえるだろうか)、自己言及的とも取れるセリフ回しにしても、前述のような旧来のファンを満足させる部分ではあるだろう。特にフランクフルトの辰にいたっては、ニート的な、いわゆるモラトリアムのアンビバレントな話であり、この映画鑑賞者の平均年齢を考えれば、シンパシーを憶える現代的な題材ともいえるだろう。
ただやはり、それは食についてまわる事物に対する述懐であり、ディズニーランドにフランクフルトが売ってない事の喪失感と、さらには持ち込むことすら許されない、世の中における自身の肩身の狭さというものが、自分のことはさておいても30そこそこの年齢の鑑賞者層が、モラトリアム 的な二律背反 を、前述の晦渋なる発語(シニフィアン )的カタルシス以上に身につまされるものとして実感でき、かつそれを映画という娯楽として教授できるのか、甚だ疑問である(とはいえ、自分のB級飯ブログをご承知の方ならお分かりかと思うが、東京ドームでもフランクフルトがなかったことは結構なショックで、スナックランド のない池袋の居心地の悪さと同等であった)。


もちろん、このような映画に嬉々として馳せ参じる輩が、凡そオリエンタルランド 的娯楽強要を、なんらの疑いも無く受け入れているとは考え難いが、しかしそれと同じくらいに、ロジカルな表層的意味の探りあいに終始して、何故にオチャラケとも捉えられかねない晦渋なる言葉遊びで装いつつも、実にくだらなくもしみったれで、故に実生活的に深刻な事象が横たわっていることを取りざたしないのか。
それを今回の『立喰師列伝』でいえば、映画的演出という意味でのコミカルな面白さではなく、人が食い物に執着する滑稽さにこそバカバカしくも拭いきれない人間の動物としての性をいとおしく描かれているのではないだろうか。このバカバカしさは、ヒトを煙に巻く程の難解なセリフ回しも実はガキのイタズラのような無邪気で無責任なものでしかないが、故に――人なんて成長したってそんなクダラナイものが楽しいなんて存外そんなもんでしょ――という真実もあるような気がする、というものなのだろう。その意味で、これまでの押井作品では人間のどうしょうもない部分が秘められていたのに対し、今回はまず「食ありき」というそんなもんですよって部分が始めから提示されている点で特異でありながら、紛れもない押井作品であって、そういうもんを描く器(=表現媒体)としての映画ということで、大変興味深い一作ではないだろうか。


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一応これで雑感は終りだが、次回はオマケで押井ファン的な目線から気になったことをいくつか雑談っぽくつついてみたい。過去の押井作品を知らないとつまらないので、為念。

つづく...

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