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ボトムズ論補稿(1)

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ボトムズ論補稿 ~未見者のため、もしくは復習として~

過去に掲載している拙稿『異能生存の存在証明 』をミニコミ誌として発表した当時、御買い上げいただいた方から手紙と同人誌をいただいたのだが、その中に、「ポップカルチャー・クリティーク」0号のコピーが同封されていた。この手のサブカル雑誌にはうんざりなので知らなかったが、稲葉振一郎なる人物が「ボトムズ」について触れているので、少々長くなるが「ボトムズ」の概要がわかるものなので、ご存じない方は是非読んでみて頂きたい。


この作品について、批評家の上野俊哉 氏はこう書いています。
「装甲騎兵ボトムズ」では、アストラギウス銀河を二分するキルガメスとバララントの星間国家の間で、もはやその理由もさだかてはないままつづく「百年戦争」が、実は「ワイズマン」という異能者たちのバイオチップを複合した不可視のコンピュータ・ネットによって演出されていた過程か描かれる。主人公キリコ・キュービイが異能者(二ュータイプ?)であったことも、キリコが遺伝子工学と生化学技術によって作られた異能者であるPS(パーフェクト・ソルジャー)の女と恋におちることも、ここでは全ての出来事が見えないカによってプログラミングされていた(このへーゲル的「歴史の終り」にのぞんてキリコはニーチェ的な「超人」としてワイズマン=「絶対神」の支配と遺産すら拒否する)。(上野俊哉「ジャパノイド・オートマン」『ユリイカ』一九九六年八月号「特集ジャパニメーション 」、一八二頁)
これは、最後のヘーゲル の二ーチェのというオハナシを除けば、きわめてわかりやすい「ボトムズ」の要約紹介です。要するにキリコはPS(「機動戦士ガンダム」シリーズの用語でいえば人工的二ュータイプとしての「強化人間 」ですね)の秘密を知ったがために追われ追われの族を続ける、と最初は見えたのですが、やがて彼をハメた連中の黒幕であるワイズマンの関心が、PSにではなく彼自身にあることがわかってきます。PSはかつて古代文明において自然に出現したワイズマンら異能者(「ガンダム」でいうところのニュータイプです、まさに)の人工的で不完全なコピーにすぎず、キリコこそが数千年ぷりに誕生した自然の異能者であること、そしてすべては、ワイズマンか自分の後継者を生み出し、鍛え、遺産を受け経がせるための出来レースだったわけです。そして終幕ちかくでワイズマンと出会ったキリコは、自分を翻弄した宇宙に復警するためワイズマンの後継者になる、と宣言し、かつて自分を追いつめてきたワイズマンの手先(そのメンバーはワイズマンの真意をまったく知らされていなかった哀れなたんなる道具たち)の秘密結社の首領となり、ワイズマン復活阻止のためついに手を結んだ二大強国の軍を蹴散らし、ワイズマンとの最終ランデヴーポイントに臨みます。その途上でキリコは最愛の人PSのフィアナら数少ない仲間の阻止を冷酷に振りきり、いまは自分の部下となった秘密結社のメンバーを弾よけ、捨てゴマとして容赦なく消費していきます。このあたりの描写は圧倒的な迫カです。
しかしついにランデヴーポイントに到達したキリコは、ワイズマンの宿るコンピュータを破壊してしまいます。すべてはワイズマンを欺くための決死の演技でした。彼は戦争に利用されることを拒否し、愛するフィアナとともに、戦争のない世界への逃避の希望をつないで、宇宙空間で醒めるあてのない人工冬眼にはいり、物語は終わります。
平たくいえば、キリコは神様になることを拒否して、ふつうの人間であることを選んだのです。先代の神様たるワイズマンは彼を選び、彼のためにすべてを用意しました。しかもご丁寧にも、彼がそう望むような動機(戦争のなかで翻弄され、権カにもてあそばれ、おぞましい人間兵器にされ、そのうえで愛を知り、人間として生きる喜びを得たにもかかわらずそれを奪われ、世界と己の運命を憎むように、と)さえ与えて。にもかかわらず彼はワイズマンによる選びと救済を拒否したわけです。でもそこにはなんの不思議もないですね。上野氏は「超人 」という言葉を用いていますが、注意しなければならないのは、この「超人」とはあくまでもふつうの人間だということです。自分を破壊しようとするキリコにワイズマンは、おまえを彼女と巡り合わせ、愛するように仕向けたのも自分だ、と言って彼の心を惑わそうとします。しかしそのような惑わしに負けないことが、「超人」であるということです。ワイズマンがそう仕組んたことはたしかに事実です。それでも、彼女をいま現に愛しているのは彼自身にほかならない。彼を作り出したのがワイズマンであっても、いま現に生きているのは彼自身なのです。そのことを肯定し、それ以外に自分が生きていることの根拠なるものを必要としないということが「超人」であるということです。べつにまったくたいしたことではありません。
ちなみにLDボックス第二巻のライナーノートでは、高橋氏が「機動警察パトレイバー」「攻殻機動動隊」でおなじみの押井守氏と対談していますが、押井氏は自分のいつもの「犬」概念に引き寄せてむりやりキリコを解釈しようとしていて笑えます。バカじゃなかろか。押井氏の「犬」ってのはいつも自分がそのために生き、死んでいける神様をうろうろ捜している衰れな捨て犬のことで、まさに「超人」の反対、後述する「ルサンチマン 」の権化なんです。「ボトムズ」世界における「犬」はワイズマンの手先たち、そしてワイズマン自身にほかなりません。いやこんな言い方、すべての犬に対して失礼ですね(なお押井氏の「犬」概念については、それに対する佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義 』文藝春秋、一九九二年、の周到な読解解が参考になります)。
「ボトムズ」が多くの人々に愛されているのは、それがいわゆるリアルロボットもののひとつの到達点(たんなる通常兵器としてのロボットに乗る主人公!ロボットはいくらでも代わりがある使い捨ての道具にすぎない!)を示したと同時に、「ガンダム」「伝説巨神イデオン 」「聖戦士ダンバイン 」に見られる、富野喜幸氏(現・由悠季)のロボットアニメがはまっていた落とし穴(「運命に翻弄される人々」というオハナシ)をすんなりと回避しているからでしょう。いえ、「自分か自分であることの肯定」を直接的なお説教というかたちでしか示せなかった「新世紀エヴァンゲリオン 」さえもそこでは前もって克服されているのです。
個人としてまっとうに生きるためには、いやおそらく社会がまっとうなものであるためにさえ、二ュータイプとか人類補完計画とかは不必要であり、そのようなものへのこだわりこそがますますそれらが癒すと称する病へと人を導くのです(薬物依存と大差ないですな)。


一応付け加えておくが、今後文脈の上で取り上げる作品、TVシリーズと時代を同じくしてサブストーリーとして制作されたOVA『野望のルーツ』『ザ・ラスト・レッドショルダー』は、キリコの異能性を見出したペールゼンなる人物が超人的戦闘能力の集団レッドショルダーを組織し、さらに人造的な超人兵器PSを生み出す過程と、それらがキリコとの邂逅により生まれ、キリコによって翻弄される様を描いている。


つづく...
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