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文脈と前提~島田雅彦『彼岸先生』

彼岸先生久々に島田雅彦に再び手を付けだした。ということで『彼岸先生』を読み出したが、まだ、漱石云々というかんじは感じられないが、やはりタルコフスキーなどの単語が出てくる。
こういう固有名が小説に出てくるというのは、オタク的な感覚でいえば、同族意識というか「これ知ってる人いる?」という、さもしくもついやってしまうことだが、この場合少々事情が違うようだ。

これまでの文学のような世界での知的文脈、みたいなものから出ているものだと思う。つまり、島田雅彦の場合、小説というものが日本に誕生してから、文芸批評で執り行われてきたこと、ちょっと前のことで言えば、ポストモダンの言説に至るまで、文学というジャンルが問題としてきたこれまでの歴史、つまり文学的な文脈というものを踏まえたうえで、固有名を使っているということだ。
つまり、どれどれこういう固有名を用いる場合、その言葉に対してこれまでどのような言説があったかがわかってしまうわけだ。これは逆に、いまさらこんな言葉を使うのはヤバいだろう、という自主規制にも繋がる。もっとも、島田の場合、そんなちゃちなことには頓着しないのだろうけど。
それにしても、文脈を背負っているものとそうでないものとの差は明らかだ。よくも悪くも、背負わない文章は時代性を感じさせない、よく言えば、他人はお構えなしに、自分自身がいいと思ってきたものが素直にでている。しかし、気付いたことが既に埃をかぶっているような発見だって事も往々にしてある。島田は明らかに文脈を背負っている。だから多くは語らない。さらっと、タルコフスキーといってのける。島田の作品からはそれが逆に自由である印象を受ける。

個人的に思う面白さは、その自由さにもあると思う。しかしその自由さを与えている固有名は前提を必要としているものではなく、字面として定着してはいても、決して衒いではないのだ(というかその意味では機能しないと思う)。こういうことは東浩紀によってある程度語られていることなのだが。。。

【初出:1999年6月17日】

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