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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(6)

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最近、焼き魚の皮に目覚めつつある。いきなり卑近な話になって申し訳ないが、どうも魚好きは魚の皮にこそ旨みを見出すものらしい。皮に魅了されると、身を好むなど愚の骨頂となるらしいのだ。以前は平気で魚の皮をまるでゴミのように、箸で剥いでは小骨とともに打ち遣っていた。皮と身の狭間の脂身に一番旨みが凝縮されているという話があるが、そこの脂身は好きだったので、皮からこそいでは食べ、皮は残していた。あるとき『タモリ倶楽部』で魚の皮だけを食べる企画をやっていた。空耳アワーで安斎肇もみうらじゅんが大の皮好きだといっていた。それで食べてみたところ、見事にハマってしまったわけだけど、皮を食べるようになって思ったことは、もちろん皮そのものは美味しいのだが、その旨みが凝縮していると思しき脂身が一番摂取しやすい食べ方なんじゃないかということだ。皮からこそいでいた頃のことを考えると、確かに舌では旨みを感じてはいるものの、では実際どこからが身でどこからが脂身なのか、よくわからないことに気づいた。鯖が一番好んで食べるのだが、箸でピーっと皮を剥ぐと、確かにきれいに皮と身が分かれる。で、その脂身の殆どは皮側についてるが、こそいでみると、存外少なく、ついたまま皮を食べると十二分に旨みが感じられる。
長々と魚の皮の話をしてしまい申し訳なかいが、胡蝶の夢というものには、案外そんな夢と現実の狭間にあって、存在の確認できないながらもしっかと感じることの出来る旨み、という魅力が隠れているのかもしれない。下世話な話だが、所詮といってしまえば、そんなもののような気がするし、所詮そんなものだから、気づかれにくいし、意識しないと見出せない。パルプフィクション的な下世話という先に述べたのとは違う意味で、下世話であるからこそ、偏在化しているものなのではないだろうか。いや、多くの胡蝶の夢的なる作品が得てして娯楽作品のフォーマットで配給されていることを考えても、多くのパルプフィクションに埋没する中でこそ、見出されるものなのかもしれない。
個人的な印象だけかもしれないが、押井作品でも、作品世界の構造に対して問いを立て、語るのは、主人公ではなく、P2の荒川や後藤、そのほかの作品でも林、伴内、さくらに至るまで、脇のキャラクタであることが多い。寧ろそういったキャラクタの方が魅力的に映る。『ボトムズ』でいえばロッチナやペールゼンがそうだろう。味のあるキャラクタは旨みがあっても決して主役にはならないのは、虚構と現実の狭間でその真実を語っているように見えながら、全部嘘っぱちでそのキャラ自身も存在の危うい夢幻であるかもしれないからだろう。そう、文楽の人形遣いのように、主役の人形を魅力的に見せる裏方ながら、確かな存在感としてあり、それを通して、映画を観ている時間内だけ鑑賞者に夢と現実の狭間を感じることを可能にしてくれている。それは非常に感覚的であり、理屈じゃなく、他のものでは感じられない感動を与えてくれる。
夢と現実の狭間の脂身に取り付かれたものは、身から脂の付着する皮、つまり映画とはなにかと掘り下げていくと、そこにはなにもなくて、気づけば視覚し得る像それだけがあったという立ち位置に帰り、執着する。それに気づく要素は映画の中にこそある。人形・PS・レンズ・鏡・・・それら観照という関係こそ魚の皮の関係だったのだ。その目に映りしもの、映像が映し出され、幕を閉じた劇場から外に出て映る、我々が現実としている風景も魚の皮だろう。そうした再現のないリフレクションの中で、脂身を感じられる快楽を覚え、それを構造として確信犯的に取り入れられた映画がつくり続けられる限り、自分は映画を観続けるだろう。そして、映画もまたつくられ続ける。

【初出:2005年12月30日】

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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(5)

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そういった、バイオレンスとは違ったレベル(一般的な映画での感動を欲する鑑賞者を裏切るという意味)での残虐性をも持ちえる北野武にあって、夢と現実を真っ向から描こうとしようとしたのが『TAKESHIS'』であって、その意味でこの映画の出現は十分に予測できた。寧ろ遅すぎたぐらいだ。このことに関しては以前ちょっとした文章にまとめたので、そちらを参照いただきたい。
いまこの文章を書いている05年という年は、『TAKESHIS'』とともに「胡蝶の夢」という作品もつくられた。これは『ウルトラマンマックス』というTVシリーズのひとつで、実相寺昭雄が監督した2作の内の一つ。残念ながら、今回のウルトラシリーズで実相寺監督作品があるとは知らず、気づいたときにはもう一作のメトロン星人復活「狙われない街」のみ視聴できたという状態だった。なので多くの方がネット上にあげていたインプレッションのみを以ってしか、来年のDVD発売までその詳細を知りえようはないのだが、『ウルトラマンマックス』の脚本家である主人公と、作品世界の主人公の区別がなくなり、夢から醒めた主人公は夢の中の自分と夢から醒めた自分のどっちが本当の自分か交錯してしまうというものらしい。
『TAKESHIS'』をして劣化押井という評価を下すものもあるようだが、押井作品はそういた判で押したような印象が固まるほど「いつもの押井」という作品ばかりになり、実相寺昭雄然り北野武然り、いまになってもこうした胡蝶の夢的な作品がつくられ続けている。『TAKESHIS'』の前評でもしばし言われていたが、遡ればフェリーニの『81/2』、アンドレイ・タルコフスキー、それこそゴダールやジャパニーズ・ヌーベルバーグと呼ばれた先達など、数々該当する作品があり、映画でなくとも夢野久作『ドグラ・マグラ』、果てはそれこそ「胡蝶の夢」まで、新しいどころか非常に歴史のある、こういってよければ古臭いテーマであるといえる。映画のルールは新たなルールの映画がつくられる毎に更新されるというが、こうした胡蝶の夢なるテーマ性は05年の新しいルールでも、押井作品によってつくられたルールでもない。だのになぜ、今つくられなければならないのか、なぜ未だにそのテーマでなければならないのか。
こうした傾向の作品の数は、確かに多くの映画、それも特定の劇映画がどれも似たような恋愛劇なのだから、それから比べれば遥かに品薄ではあるだろう。品薄であるからこそ、つくられる度に斬新とか理解不能とかいうレッテルを貼られ、と同時に過去の作品と比較され斬新さも批判される。ここから導き出されるのは、新たなルールといったような、映画史というものを俯瞰した、単に歴史的段階において誕生した、もしくは認識されているものではないということだ。人間、一生のうちに観れる映画の数など高が知れているし、映画をまともに観れる期間など、10代後半から60代の、高々50年で映画や創作物の歴史を俯瞰できやしない。その都度持ち込まれる、新奇でもないのにアヴァンギャルドと目されバッシングされる歴史が繰り返されることの、なんと馬鹿馬鹿しいことか。
こうした兆候は、80年代に花開き一気に失速したと思われているポストモダンの動向と似ている。建築用語から派生した言葉で、確かに建築分野では、そのキメラ的な時代や様式を横断した破天荒なデザインはバブルとともに衰退したといっていいかもしれないが、思想としては時流に乗ったタレント的な文化人を除いて(目立つから主流と思われたようだが)、ムーヴメントとは別のところで息づいている。本著ではあまり触れていないが、これまで幾度となくポストモダンを扱ってきたのは、これまでの文脈からも伺えるように、「ある」と思っているものを自らで否定してしまう、「ある」と思っていた先になにもなくそこは元いた場所だった、という自らを内省、つまりどんどん突き詰めていくと、その自らとはなんだかったのか、そんなものはじめからあったのかすらわからなくなり、気づけばそう考えている自らだけが確かなものとして存在していたという元の場所に帰ってくる自己言及性を「胡蝶の夢」的な映画から、映画の可能性そのものとして見出してきたからに他ならない。
ポストモダンの思想家と目された中でも未だ(この表現が既に歴史的段階を意味しているが)活動を続ける人たちは、当時から「ポストモダンは歴史的段階ではない」といい続けていた。時代時代に思想の流行があり、その先端に当時ポストモダンがあったことは確かだが、そこで生まれたポストモダンの言説の内容自体は、別段新しいものではなかった。だって、ポストモダンで扱っている問題は80年代で始めて誕生したものではない。ドゥルーズ=ガタリの引用にした、エディプスコンプレックスの、いわゆる父殺しだってギリシャ神話なわけだし、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』のゲーデルの数学基礎論などでも取りざたされる「0(ゼロ)」という概念は、古代エジプト文明やマヤ文明等では、既に0の概念を発達させていたとされているし、インドで最初に数の概念として0を考えだされた年代は未だはっきりしていないほど昔の話で、それこそ、蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めたが 自分が夢で蝶となったのか、蝶が夢見て今自分になっているのかと疑った「胡蝶の夢」の荘子は紀元前369~286年の人なのだから。ポストモダンという文脈の中で、脱構築や自己言及性を過去のものから見出していくというのは、思想の流行的な潮流ではない、つまり新たに生み出された思想ではないことの表明であり、レッテルのいらないことから、モダンの次というだけの、実体のない、固有名を欲しないポストモダンという言葉になったのだろう。
このポストという言葉が実体のなさよりも歴史的段階という誤解を招き、次の、つまり新しいものとして揶揄の対象になったわけだが、これまで映画で見てきた中身の不在という映画の像という視覚的な外側だけの話と絡めれば、ポストモダンが歴史的段階ではないのと同様に、05年現在、「胡蝶の夢」的なる映画がつくられても、斬新でも、はたまた劣化押井でもないことが理解していただけると思う。ではそうした長い歴史にあって、いつの世も新奇なものとして目されながらも、胡蝶の夢が多く夢見られてきた、その魅力とはいったいなのだろう?

(続く・・・)

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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(4)

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ちょっと待った! ではフィアナは感情のない空っぽの人形とでもいうのか!?なんて突っ込まれてもしかたないかもしれない。ここでも観照というのがキーワードになってくる。フィアナというフィルターを通してキリコが視覚されると述べてきたが、そうした鏡は相関関係にあり、キリコが感情的な表現をするようになるのと同様、フィアナもキリコを認識することで感情を持つようになる。そもそもPSは戦うための人形で感情をもってはならなかった。映画は観ている間は感情を揺さぶられるような内容であったとしても、終わったそこには何も映っていないスクリーンと、映写機に入れなければまともに鑑賞出来ないフィルムがあるだけだ。そう、キリコを視覚する間だけ、フィアナは単なるPSではなくなり、ボトムズという作品はフィアナの感情を持って動き出す。
原理主義を持ち出すわけではないが、アニメという言葉の語源は、魂を吹き込むといった意味合いらしい。単なる画の連続に魂を持った人間と見紛う錯覚を抱くのだから、映画という虚構の中に何かあるんじゃないかと勘ぐる媒体として、アニメはその存在自体が既に自己言及性を孕んでいる。そのアニメの中にあって、人形という、作品世界を現実として生きるアニメキャラにとっての偽者を設定するという観照関係を内包する構造は、鑑賞者にとって、目の前の映画というフィクションとの関係を喚起させられるには二重に手の込んだ構造といえよう。
しかしここまで来ると、映画を構成する一要素として、散在する他要素に埋没しているならいざしらず、あざといまでにメタフィクションとして演出されていると、返って仇となって、単なる形骸化した形式的表現として鑑賞者に迎えられるという面も露呈してくる。いわゆる「いつもの押井」とか、押井作品以外をして「劣化押井」といった表現をされてしまう、まさに諸刃の剣なのかもしれない。
ここは逆に、構造が深化しない実写映画の方が観やすいかもしれない。北野武の『DOLLS』では繋がり乞食の末路が古典的な道行きであることを人形浄瑠璃のイメージを挿入することでリンクさせて画的に表現している。映画全編を通して、赤を基調とした色使いや、凡そ乞食とは思えないファッショナブルな身形など、リアリズムから遠く離れているという意味では、生身の役者の演技ながらアニメ的なのかもしれない。
そういった諸要素の中でもきわめてリアルでない印象的な表現として人形があげられる。人形浄瑠璃、いわゆる文楽では、人形を動かす3人の黒子は見えないことになっている。この黒子のことを人形遣いと呼ぶのはなんとも因縁めいているが、3人はそれぞれ、シンとなる主遣い・左手の担当左遣い・両足の担当足遣いと役割分担されている。一つの人形を3人で動かすのだから人形遣いの方が目立たないわけがない。おまけに、黒子の覆面は主遣い以外の二人だけで、主遣いはオッサンの顔まで丸出しである。
人間特有の指先まで動かす微細な動作や、シワやシミといった部分を廃した、人形という似て非なるものの独特の動き・しぐさといった美を表現する世界にあって、なぜシワだらけのオッサンが人形の肩越しにヌッと出ているのがOKなのか、文楽に精通しないものなら不思議でならないだろう。しかしそこには、人形遣いがいるのにいないものとして観ながら、主遣いの顔も含めた独特の表現世界を形成してきた長い歴史があるからに他ならない。
北野映画ではオーバーなアクションでドラマを盛り上げるのではなく、動きを禁欲的なまでに廃すことで、逆説的にリアリズムを表現することを可能にしている。方法論としては、ロボットを乗り捨てたり、戦闘中「でりゃー!」とか「どわ~」とか言わないキリコと近しいものがある。いうなれば静的な表現は、『DOLLS』ではひとつの型として、伝統芸能という極端な型の世界と対比することで的確に表現しているのではないだろうか。
構造的な面に目を向けると、映画のなかの時間軸をドラマにもとめるとすると、文楽と乞食の道行き、アイドルの追っかけ、中年の想い、全ての要素がドラマ的には全くリンクしていない。ドラマとして観るのであれば、乞食の道行きだけで十分である。単に異性を想うそれぞれの形、その数パターンを乞食の道行きを軸としながら列挙して、ひとつの作品の上映時間軸上に配列しているに過ぎない。映画中盤、砂浜でそれぞれの役者が邂逅するシーンがあるが、実にこの映画の構造を象徴している。各々が話し合うでもなく、行き違うだけ。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』の橋の上から花火を見るシーンを想起させるが、人間が見る虚構、つまり夢なんて辻褄のあった理路整然と並ぶものではないし、幾つかの想いを巡るそれぞれの物語に、観ている側が何か繋がるような、自分自身の現実のなかにも思い当たるような出来事とも繋がるようなものが見出され、思うところがあれば、それでいいんじゃないだろうか。
醒めれば全て夢幻、人間ドラマの内部にある感情や生き様といったものは、映し出される映像という現象にあって、中身なんてそもそもありはしない。『DOLLS』の、本来であるならば感動的ですらある死の結末がどうにもドラマとしては盛り上がらないのは、そんな扇情的な人間ドラマの内側がゲッソリ抜け落ちているからであり、表層のみの死のイメージで構成された画面に、安易な同情を挟む余地はない。感動的な結末を欲するならば、映画を見終えた瞬間、その欲求は満たされる。しかし世の中にはそんな下世話でチープな感動ドラマは吐いて捨てるほど存在している。一時的な欲求を満たすために、いわば消費材としてそういったドラマや再現ノンフィクションなんてものも含めて多産され続けている。それはそれでいい。なくてはならない。
しかし、そんなパルプフィクションにはない、形骸化した感動ではないものを求める向きもまたあって当然だろう。『DOLLS』の画面からは、話の筋や感情をシンプルにして抑えることで、パルプフィクションからの離脱を図っているように思えてならない。贅肉を削ぎ落としたそこにあるものは、人間の形をした像が映し出されているだけだった。道行の死のラストは、あまりにあっけなく、まるで血の通っていた人間の姿とは思えないほど、ちっぽけな木偶のようである。そう、まるでチープな子供向け特撮のような、いかにも人形で代用しましたって具合に、断崖の枝に釣り下がる二つの人形の影。このカットには既視感を覚えた。『パトレイバー』劇場版1作目のラスト、崩壊した箱舟で朝日をバックに零式とイングラムがワイヤーに繋がれて海に落ちかけるカットである。アニメであるから、虚構を了解して楽しんでいる我々には不自然なカットではないが、実写だとその模型的な人形のシルエットはバカにしていると思えるほど違和作用がある。
ロボットと人形、どっちも設定では人の形を模倣したヒトガタである。ドラマという限られた時間の中で如何にドラマチックであったとしても、そんな人の生き死になって世の中には吐いて捨てるほどある。それこそ地球規模や歴史という時間軸で考えれば、人という生命が増減を繰り返すそのひとつの細胞分裂みたいなものでしかない。別段生命を軽視しているのではなく、人は死ぬのは当たり前のことだし、命は尊いのとは同等に、ひとつの肉槐というか、形でしかない。その二律背反を抱えている人間にあって、視覚しうるものは外側の形を像としてしか認識できないことを、オーソドックスな道行という下世話な話の中で見せ付けられた気がしてならない。そのチープな人形の死に様で終わる話は、最後に再び文楽の映像で締めくくられる。そこにはしっかりと、見えないつもりでも確かに存在する人形遣いの姿があった。

(続く・・・)

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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(3)

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PSと人形の親和性は述べてきたが、それはOVA『赫奕たる異端』において鏡を失った状態のキリコに戻っているのだから、別段「押井守が監督したら」という仮定をしなくとも、既に完結しているのではないだろうか。いいわけを述べると、件の発言は『赫奕たる異端』が制作される以前の話で、その時点での可能性を仮定していたからだ。しかし、だとするならば、『イノセンス』を作る前にイノセンス的な作品がボトムズというフォーマットで制作されてたんじゃないのか。この仮定はもちろん、細かな設定などのディティールを予測して、つくられるかもしれない映画を再現するのが目的ではない。
薄々気づかれた方もいるかもしれないが、押井守のように方々で映画について語らない(出てくる立ち位置にない)高橋良輔にあって、映画・アニメ、ひいてはフィクションの可能性を感じさせてくれるような作品がつくられていたことを提示することが目的であって、押井作品との対比から、映画の可能性の中心を模索していけるんじゃないかと思うに至ったわけである。
押井守が敬愛する映画監督の一人、アンドレイ・タルコフスキーの映画に『ストーカー』という作品がある。ゾーンと呼ばれる世界の中心にナニかがあると探求に向かうが、そこにはなにもなかった。乱暴すぎる粗筋になってしまったが、映画というのは筋だけで成り立つものではない(でなければそもそも映像はいらない)。言葉で表せる筋なんてのはそんなもんでしかないのだが、それを敢えて取り上げたのは、中心にはなにもなかったという簡潔な構造を提示したかったからだ。つまり、内容とか意味とか、そういったものは鑑賞者が見た結果、見出したか否かという、主観的で手前勝手な感想でしかなく、映画にそもそも備わっているものではない。こういってしまえば、映画を観るという行為には客観性などは存在しない。あるのは多くの人に等しく照らし出されると思われている、スクリーンに映し出される像、それだけ。
だから、映画の可能性の中心といっておきながら、映画の可能性も何も、出来た映画はその瞬間全てが可能性であり、そこに中心もクソもない。とはいえ自分で言ってて墓穴掘ってるわけではない。中心のないものを模索しようという話だ。つまり、こちらが勝手に、中心を模索していると勘ぐった表現を取り上げて、映画にとってナニが一番ハッピーなのかと勝手にあてつけているに過ぎない。
こんなややこしくも自己矛盾を抱えるようなことをいうのも、少なからず中心の欠落というモチーフを何故、そもそも中心のない映画で描こうとするのかという疑問が沸いて来たからに他ならず、そうした映画をみると何故にこうも心が揺さぶられるのか、という関心が興ってやまないからだ。その構造は、キャラクタが観照によって疑念を抱くのと同様、それを観ている自分が観ていることに疑念を抱いているのだ。だって、それに中心はなにもないのだから。
翻って、中心の欠落を意識させる要素は、中身があると根拠もなく思い込んでいるキャラクタが、中身がないんじゃないかと疑念を抱くことで浮上してくるのだが、その疑念を抱かせる対象が作り物、中心(人間ドラマで言えば魂)の欠落している紛い物である人形であるというのは、なんとも出来すぎといえるだろう。

(続く・・・)

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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(2)

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以前UPした『異能生存の存在証明』において、触れ得ざる者は寧ろフィアナであって、キリコにとって世界を認識する鏡的な存在であると書いた。思い出して欲しい。ボトムズという物語は、フィアナと邂逅することで始まる。時系列的にはOVA『野望のルーツ』からだが、ペールゼンというキャラクタからみた、キリコの過去への遡行であって、ワイズマンへと至る物語の道筋において、キリコの特殊性(異能性)を描くべく挿入されたと考えるのが妥当だろう。しかし敢えて穿った見方をしてみれば、ペールゼンがPSの開発へと向かう最初の一撃は、キリコの生誕その瞬間であったことからも、フィアナというPSとキリコという異能者の出会う機会を補完しているエピソードともいえるだろう。
『ボトムズ』というアニメそのものが我々に視覚され得るのはキリコただ一人の状態ではありえず、そこには常に直接的間接的にフィアナがいる状況でしかありえない。OVA『赫奕たる異端』はフィアナが死ぬという結末でファンの間では評判が悪いが、現時点でボトムズという作品はこれを以て最後になっていることは、我々がキリコの物語を見ていたのではなく、キリコを見ていたフィアナの物語であったことを皮肉にも裏付けてしまっている。だからフィアナが死んだ時点で、キリコは視覚されない。つまり、キリコを巡る物語は終わる。
ここで注目したいのは、フィアナというキャラクタが設定上PS、つまり作り物であったことにある。これがもし単なる一女性キャラクタであったなら、ここまで大きな存在にならなかっただろう。それはPSの寿命とかそういった設定上のことではない。少々メタ的な物言いになってしまうが、それは『ボトムズ』が実写ドラマではない、アニメという画で出来上がった虚構の表現媒体だからだ。もちろん、実写ドラマでアンドロイドと恋に落ちる話はあるし、それだってデータとて記録されたメデイアというまがい物であることに変わりない。最近では役者だってどこまでCGだかわからないのだから。
しかし、問題は観照にある。実写の場合、劇場のスクリーンに投影されたものが単なる化学的に視覚される虚像の世界だったとしても、撮影された段階では人間が直接演じている。鑑賞者にとって、いつ出会ってもおかしくない、同一の可能世界の住人が写っているので、それそのものに虚構性を喚起される機会は余程、フィクションの虚構性を問う内容のドラマでない限り、リアリズムの名の下に演技は実際の人間として表現されてしまう。しかしアニメの場合、いくらリアルな描写を目指したところで、アニメとしてリアルに感じられるだろう、感情移入できるであろう表現ということに留まり、引っ繰り返っても、あんな髪型や目のでかい人間がリアルであるはずはない。それは暗黙のルール、記号としてあるから、その上での表現として感情移入が可能になるのだが、そういったアニメの世界であって、先に実写の例で述べたような、フィクションの虚構性を問う内容のドラマがあったら、実写よりもアニメのほうが「オマエが虚構だろ!?」と突っ込みたくなるような顔をしているに違いない。
作中の登場人物が自らの存在に対して、己は何者なのか?といった問いを立てる場合、
[アニメのキャラクタが自らが実在することを疑う]
のと
[俳優が自らが実在することを疑う]
のとでは、どちらが疑うことについての違和が明瞭か、言わずもがなだろう。作品世界というレベル、現実世界と想定するレベルの2つがあるとして、我々鑑賞者は俳優と立脚する立ち位置が一緒だから、作品の虚構と現実世界という2つの対比しかないが、アニメの場合、アニメキャラが現実としている立ち位置と鑑賞者の立ち位置が違うので、アニメキャラにとっての現実と虚構という2レベルの対比に加え、鑑賞者の立ち位置である現実世界と鑑賞しているアニメ作品との対比があり、それは
[アニメ世界の虚構と現実の2レベル]:[鑑賞者の現実の虚構と現実の2レベル]
という2つのレベルがそれぞれの2レベルを内包している形となる。つまり、映像を鑑賞するという行為と同じ関係が鑑賞対象の内部で観照関係が提示されていることになる。
『notイノセンス?』で述べたように、虚構と現実の入れ子構造は現実に戻ることが問題なのではなく、ましてや虚構と現実が区別つかないといったようなチープな倫理的問題でもない。その対比を物語として語る上で便利であるという方便に過ぎない。その対比のモデルが提示されればいいわけで、そこに映画という虚構が立ち現れる瞬間があるんじゃないか、と様々にこうした対比が虚構と現実を取りざたする作品ではモチーフにされているのではないか。だから、フィアナがPSであることで、虚構の対比の構造がわかりやすくなり、『イノセンス』における人形とリンクした。
作中にそうした対比のモチーフが多ければ多いほど、対比構造は明瞭になると同時に、キャラクタの抱く疑念がより深く立ち表れるようになる。セクサロイドが如何にも作り物という効果音などの演出されていることを既に述べたように、象徴として、映画のイントロ部分、わざわざ胸を開いて嘘モノの人形であることをぶちまけ、そこにバトーが弾丸を撃ち込むという印象的なシーンでタイトルに繋げているのは、この映画がどんな映画かを象徴するにはこれ以上ない見せ方だろう。これは『ボトムズ』にも容易に妥当する。TVシリーズのオープニング、スコープドックのレンズのUPで始まる。鑑賞者が作品をみていると同時に、作品側がコチラにメンズを向けている。つまりお互いにみているという観照の状態で始まり、OPのラストはレンズにキリコの陰が映って終わる。そのキリコを見る目線は!! これは単なる偶然の一致かもしれないが、穿ちすぎの妄想と片付けるにはあまりにも『ボトムズ』という作品を、そしてキリコのポジションを一瞬で表現するには出来すぎていやしないか!?
つまり、アニメの中でキャラクタが存在に問いを立てるのは、アニメの設定世界における作り物の虚構存在がいることが条件となる。自らを見つめなおす契機として、当たり前と思っていることに問いを立てる対象が求められる。同じ設定世界にいながら、そして自らと対等に渡り合いながら、決定的に違う存在に邂逅したとき、翻って自らは何かという問いを立てることができる。それは自らを写す鏡であり、即ち疑念を抱くものがみていると同時に見られている観照関係でなければならない。この条件を満たす対象として、PSがあり、サイボーグのバトー、もしくは愛玩用のセクサロイドにとっての生身の人間が位置する。
(続く・・・)

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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(1)

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続きを書くといって書いていなかったのを思い出し、続きを始めます。久々のUPなので長文モノをば。
第一回がだいぶ前になってしまったので、日付更新して。


以前、なにかのインタビューで、押井守が自作以外に監督してみたい作品はあるのか?といった内容の質問に対し、ボトムズを上げていた。このとこが単なる隣の芝生的な興味と、その場のノリ的なものではない、なにかリアルなものとして自分には感得出来、そのことが10年以上経った現在に至るまで色濃く記憶の中に陰を落としていたことに、今ながら驚いている。
そのインタビューでは「キリコは犬だ」的な発言があり、ある評論家だったかが、ボトムズに関する書籍でその押井発言に対して批判を展開していたが、キリコが犬であることは以前に文章で触れた。蒸し返すつもりはないが、キリコが犬的であるというのは、押井作品の男パターンに該当する、自らは懐疑しない存在として、ただそこにあり続けるというキャラクタとして認識しているからなのだが、そのことは追々述べるとして、自分の当初の関心は、単にメカ(ミリタリーや軍組織)の押井趣味的な部分がボトムズという世界設定においてより魅力的に花開くだろうと思い描いたに過ぎず、無邪気なオタク的関心異常のものはあまりなかったように思う。ATの機能美的なメカ設定はいうに及ばず、ボトムズのLDの映像特典だったかのタイトルが『証人喚問』だったり、OVA『嚇約たる異端』のプレビデオが「ブリーフィング」だったりと、多分に軍組織的な臭いを放っていたことが、押井版ボトムズという空想を膨らませるに足るものだった。
しかし、ありうべからざる作品に対してテンションは盛り上がるはずもなく、漠とした希望として打ち遣っていたわけだが、『イノセンス』を観るにあたり、そのオタク的願望はよりリアルな過程として、再び頭にもたげるようになったのだ。
なぜに『イノセンス』が『ボトムズ』なのか。別段犬という線で単に結んだわけではない。主人公であり世界を彷徨う犬は、ただそこにあるというだけの存在以上でもないことがそのポジションたる所以なので、そう考える必要はない。その主人公が彷徨う世界を、作品世界として我々観る側が認識する外部視覚装置、いうなれば、物語を発動させ、我々にその姿を見せてくれる世界の鏡がなんなのかということがキーになってくる。『イノセンス』の人形の対比としての、『ボトムズ』のPS、つまりフィアナである。
(続く・・・)

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