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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(4)

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ちょっと待った! ではフィアナは感情のない空っぽの人形とでもいうのか!?なんて突っ込まれてもしかたないかもしれない。ここでも観照というのがキーワードになってくる。フィアナというフィルターを通してキリコが視覚されると述べてきたが、そうした鏡は相関関係にあり、キリコが感情的な表現をするようになるのと同様、フィアナもキリコを認識することで感情を持つようになる。そもそもPSは戦うための人形で感情をもってはならなかった。映画は観ている間は感情を揺さぶられるような内容であったとしても、終わったそこには何も映っていないスクリーンと、映写機に入れなければまともに鑑賞出来ないフィルムがあるだけだ。そう、キリコを視覚する間だけ、フィアナは単なるPSではなくなり、ボトムズという作品はフィアナの感情を持って動き出す。
原理主義を持ち出すわけではないが、アニメという言葉の語源は、魂を吹き込むといった意味合いらしい。単なる画の連続に魂を持った人間と見紛う錯覚を抱くのだから、映画という虚構の中に何かあるんじゃないかと勘ぐる媒体として、アニメはその存在自体が既に自己言及性を孕んでいる。そのアニメの中にあって、人形という、作品世界を現実として生きるアニメキャラにとっての偽者を設定するという観照関係を内包する構造は、鑑賞者にとって、目の前の映画というフィクションとの関係を喚起させられるには二重に手の込んだ構造といえよう。
しかしここまで来ると、映画を構成する一要素として、散在する他要素に埋没しているならいざしらず、あざといまでにメタフィクションとして演出されていると、返って仇となって、単なる形骸化した形式的表現として鑑賞者に迎えられるという面も露呈してくる。いわゆる「いつもの押井」とか、押井作品以外をして「劣化押井」といった表現をされてしまう、まさに諸刃の剣なのかもしれない。
ここは逆に、構造が深化しない実写映画の方が観やすいかもしれない。北野武の『DOLLS』では繋がり乞食の末路が古典的な道行きであることを人形浄瑠璃のイメージを挿入することでリンクさせて画的に表現している。映画全編を通して、赤を基調とした色使いや、凡そ乞食とは思えないファッショナブルな身形など、リアリズムから遠く離れているという意味では、生身の役者の演技ながらアニメ的なのかもしれない。
そういった諸要素の中でもきわめてリアルでない印象的な表現として人形があげられる。人形浄瑠璃、いわゆる文楽では、人形を動かす3人の黒子は見えないことになっている。この黒子のことを人形遣いと呼ぶのはなんとも因縁めいているが、3人はそれぞれ、シンとなる主遣い・左手の担当左遣い・両足の担当足遣いと役割分担されている。一つの人形を3人で動かすのだから人形遣いの方が目立たないわけがない。おまけに、黒子の覆面は主遣い以外の二人だけで、主遣いはオッサンの顔まで丸出しである。
人間特有の指先まで動かす微細な動作や、シワやシミといった部分を廃した、人形という似て非なるものの独特の動き・しぐさといった美を表現する世界にあって、なぜシワだらけのオッサンが人形の肩越しにヌッと出ているのがOKなのか、文楽に精通しないものなら不思議でならないだろう。しかしそこには、人形遣いがいるのにいないものとして観ながら、主遣いの顔も含めた独特の表現世界を形成してきた長い歴史があるからに他ならない。
北野映画ではオーバーなアクションでドラマを盛り上げるのではなく、動きを禁欲的なまでに廃すことで、逆説的にリアリズムを表現することを可能にしている。方法論としては、ロボットを乗り捨てたり、戦闘中「でりゃー!」とか「どわ~」とか言わないキリコと近しいものがある。いうなれば静的な表現は、『DOLLS』ではひとつの型として、伝統芸能という極端な型の世界と対比することで的確に表現しているのではないだろうか。
構造的な面に目を向けると、映画のなかの時間軸をドラマにもとめるとすると、文楽と乞食の道行き、アイドルの追っかけ、中年の想い、全ての要素がドラマ的には全くリンクしていない。ドラマとして観るのであれば、乞食の道行きだけで十分である。単に異性を想うそれぞれの形、その数パターンを乞食の道行きを軸としながら列挙して、ひとつの作品の上映時間軸上に配列しているに過ぎない。映画中盤、砂浜でそれぞれの役者が邂逅するシーンがあるが、実にこの映画の構造を象徴している。各々が話し合うでもなく、行き違うだけ。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』の橋の上から花火を見るシーンを想起させるが、人間が見る虚構、つまり夢なんて辻褄のあった理路整然と並ぶものではないし、幾つかの想いを巡るそれぞれの物語に、観ている側が何か繋がるような、自分自身の現実のなかにも思い当たるような出来事とも繋がるようなものが見出され、思うところがあれば、それでいいんじゃないだろうか。
醒めれば全て夢幻、人間ドラマの内部にある感情や生き様といったものは、映し出される映像という現象にあって、中身なんてそもそもありはしない。『DOLLS』の、本来であるならば感動的ですらある死の結末がどうにもドラマとしては盛り上がらないのは、そんな扇情的な人間ドラマの内側がゲッソリ抜け落ちているからであり、表層のみの死のイメージで構成された画面に、安易な同情を挟む余地はない。感動的な結末を欲するならば、映画を見終えた瞬間、その欲求は満たされる。しかし世の中にはそんな下世話でチープな感動ドラマは吐いて捨てるほど存在している。一時的な欲求を満たすために、いわば消費材としてそういったドラマや再現ノンフィクションなんてものも含めて多産され続けている。それはそれでいい。なくてはならない。
しかし、そんなパルプフィクションにはない、形骸化した感動ではないものを求める向きもまたあって当然だろう。『DOLLS』の画面からは、話の筋や感情をシンプルにして抑えることで、パルプフィクションからの離脱を図っているように思えてならない。贅肉を削ぎ落としたそこにあるものは、人間の形をした像が映し出されているだけだった。道行の死のラストは、あまりにあっけなく、まるで血の通っていた人間の姿とは思えないほど、ちっぽけな木偶のようである。そう、まるでチープな子供向け特撮のような、いかにも人形で代用しましたって具合に、断崖の枝に釣り下がる二つの人形の影。このカットには既視感を覚えた。『パトレイバー』劇場版1作目のラスト、崩壊した箱舟で朝日をバックに零式とイングラムがワイヤーに繋がれて海に落ちかけるカットである。アニメであるから、虚構を了解して楽しんでいる我々には不自然なカットではないが、実写だとその模型的な人形のシルエットはバカにしていると思えるほど違和作用がある。
ロボットと人形、どっちも設定では人の形を模倣したヒトガタである。ドラマという限られた時間の中で如何にドラマチックであったとしても、そんな人の生き死になって世の中には吐いて捨てるほどある。それこそ地球規模や歴史という時間軸で考えれば、人という生命が増減を繰り返すそのひとつの細胞分裂みたいなものでしかない。別段生命を軽視しているのではなく、人は死ぬのは当たり前のことだし、命は尊いのとは同等に、ひとつの肉槐というか、形でしかない。その二律背反を抱えている人間にあって、視覚しうるものは外側の形を像としてしか認識できないことを、オーソドックスな道行という下世話な話の中で見せ付けられた気がしてならない。そのチープな人形の死に様で終わる話は、最後に再び文楽の映像で締めくくられる。そこにはしっかりと、見えないつもりでも確かに存在する人形遣いの姿があった。

(続く・・・)

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コメント

>Jさん
個人的な見解としては押井版ボトムズは見てみたいですが、いろいろ絡みがあるでしょうし、まぁムリでしょう。
押井版を仮想して書いてる文章じゃなくて、作品観照の方法論として、ムリから仮定して話をもっていってる(文章の構造をわかりやすくするために)だけなので、別に押井版を願ってるわけじゃないんです。誤解なきよう。

投稿: sye | 2006年12月20日 (水) 13時21分

ゴメン。

押井さんは今までの例からして、「原作クラッシャー」なので、
「ボトムズ」は一番参加しない方がいい人だと思う。
絶対自分の作品みたいにする為に・・・例えば聖書の引用を入れ
るみたいな事をするだろうしね。

成功させたいなら、押井さんは×。

投稿: J | 2006年12月20日 (水) 01時20分

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