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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(3)

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PSと人形の親和性は述べてきたが、それはOVA『赫奕たる異端』において鏡を失った状態のキリコに戻っているのだから、別段「押井守が監督したら」という仮定をしなくとも、既に完結しているのではないだろうか。いいわけを述べると、件の発言は『赫奕たる異端』が制作される以前の話で、その時点での可能性を仮定していたからだ。しかし、だとするならば、『イノセンス』を作る前にイノセンス的な作品がボトムズというフォーマットで制作されてたんじゃないのか。この仮定はもちろん、細かな設定などのディティールを予測して、つくられるかもしれない映画を再現するのが目的ではない。
薄々気づかれた方もいるかもしれないが、押井守のように方々で映画について語らない(出てくる立ち位置にない)高橋良輔にあって、映画・アニメ、ひいてはフィクションの可能性を感じさせてくれるような作品がつくられていたことを提示することが目的であって、押井作品との対比から、映画の可能性の中心を模索していけるんじゃないかと思うに至ったわけである。
押井守が敬愛する映画監督の一人、アンドレイ・タルコフスキーの映画に『ストーカー』という作品がある。ゾーンと呼ばれる世界の中心にナニかがあると探求に向かうが、そこにはなにもなかった。乱暴すぎる粗筋になってしまったが、映画というのは筋だけで成り立つものではない(でなければそもそも映像はいらない)。言葉で表せる筋なんてのはそんなもんでしかないのだが、それを敢えて取り上げたのは、中心にはなにもなかったという簡潔な構造を提示したかったからだ。つまり、内容とか意味とか、そういったものは鑑賞者が見た結果、見出したか否かという、主観的で手前勝手な感想でしかなく、映画にそもそも備わっているものではない。こういってしまえば、映画を観るという行為には客観性などは存在しない。あるのは多くの人に等しく照らし出されると思われている、スクリーンに映し出される像、それだけ。
だから、映画の可能性の中心といっておきながら、映画の可能性も何も、出来た映画はその瞬間全てが可能性であり、そこに中心もクソもない。とはいえ自分で言ってて墓穴掘ってるわけではない。中心のないものを模索しようという話だ。つまり、こちらが勝手に、中心を模索していると勘ぐった表現を取り上げて、映画にとってナニが一番ハッピーなのかと勝手にあてつけているに過ぎない。
こんなややこしくも自己矛盾を抱えるようなことをいうのも、少なからず中心の欠落というモチーフを何故、そもそも中心のない映画で描こうとするのかという疑問が沸いて来たからに他ならず、そうした映画をみると何故にこうも心が揺さぶられるのか、という関心が興ってやまないからだ。その構造は、キャラクタが観照によって疑念を抱くのと同様、それを観ている自分が観ていることに疑念を抱いているのだ。だって、それに中心はなにもないのだから。
翻って、中心の欠落を意識させる要素は、中身があると根拠もなく思い込んでいるキャラクタが、中身がないんじゃないかと疑念を抱くことで浮上してくるのだが、その疑念を抱かせる対象が作り物、中心(人間ドラマで言えば魂)の欠落している紛い物である人形であるというのは、なんとも出来すぎといえるだろう。

(続く・・・)

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