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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(6)

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最近、焼き魚の皮に目覚めつつある。いきなり卑近な話になって申し訳ないが、どうも魚好きは魚の皮にこそ旨みを見出すものらしい。皮に魅了されると、身を好むなど愚の骨頂となるらしいのだ。以前は平気で魚の皮をまるでゴミのように、箸で剥いでは小骨とともに打ち遣っていた。皮と身の狭間の脂身に一番旨みが凝縮されているという話があるが、そこの脂身は好きだったので、皮からこそいでは食べ、皮は残していた。あるとき『タモリ倶楽部』で魚の皮だけを食べる企画をやっていた。空耳アワーで安斎肇もみうらじゅんが大の皮好きだといっていた。それで食べてみたところ、見事にハマってしまったわけだけど、皮を食べるようになって思ったことは、もちろん皮そのものは美味しいのだが、その旨みが凝縮していると思しき脂身が一番摂取しやすい食べ方なんじゃないかということだ。皮からこそいでいた頃のことを考えると、確かに舌では旨みを感じてはいるものの、では実際どこからが身でどこからが脂身なのか、よくわからないことに気づいた。鯖が一番好んで食べるのだが、箸でピーっと皮を剥ぐと、確かにきれいに皮と身が分かれる。で、その脂身の殆どは皮側についてるが、こそいでみると、存外少なく、ついたまま皮を食べると十二分に旨みが感じられる。
長々と魚の皮の話をしてしまい申し訳なかいが、胡蝶の夢というものには、案外そんな夢と現実の狭間にあって、存在の確認できないながらもしっかと感じることの出来る旨み、という魅力が隠れているのかもしれない。下世話な話だが、所詮といってしまえば、そんなもののような気がするし、所詮そんなものだから、気づかれにくいし、意識しないと見出せない。パルプフィクション的な下世話という先に述べたのとは違う意味で、下世話であるからこそ、偏在化しているものなのではないだろうか。いや、多くの胡蝶の夢的なる作品が得てして娯楽作品のフォーマットで配給されていることを考えても、多くのパルプフィクションに埋没する中でこそ、見出されるものなのかもしれない。
個人的な印象だけかもしれないが、押井作品でも、作品世界の構造に対して問いを立て、語るのは、主人公ではなく、P2の荒川や後藤、そのほかの作品でも林、伴内、さくらに至るまで、脇のキャラクタであることが多い。寧ろそういったキャラクタの方が魅力的に映る。『ボトムズ』でいえばロッチナやペールゼンがそうだろう。味のあるキャラクタは旨みがあっても決して主役にはならないのは、虚構と現実の狭間でその真実を語っているように見えながら、全部嘘っぱちでそのキャラ自身も存在の危うい夢幻であるかもしれないからだろう。そう、文楽の人形遣いのように、主役の人形を魅力的に見せる裏方ながら、確かな存在感としてあり、それを通して、映画を観ている時間内だけ鑑賞者に夢と現実の狭間を感じることを可能にしてくれている。それは非常に感覚的であり、理屈じゃなく、他のものでは感じられない感動を与えてくれる。
夢と現実の狭間の脂身に取り付かれたものは、身から脂の付着する皮、つまり映画とはなにかと掘り下げていくと、そこにはなにもなくて、気づけば視覚し得る像それだけがあったという立ち位置に帰り、執着する。それに気づく要素は映画の中にこそある。人形・PS・レンズ・鏡・・・それら観照という関係こそ魚の皮の関係だったのだ。その目に映りしもの、映像が映し出され、幕を閉じた劇場から外に出て映る、我々が現実としている風景も魚の皮だろう。そうした再現のないリフレクションの中で、脂身を感じられる快楽を覚え、それを構造として確信犯的に取り入れられた映画がつくり続けられる限り、自分は映画を観続けるだろう。そして、映画もまたつくられ続ける。

【初出:2005年12月30日】

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