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押井版『ボトムズ』~その可能性の中心(2)

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以前UPした『異能生存の存在証明』において、触れ得ざる者は寧ろフィアナであって、キリコにとって世界を認識する鏡的な存在であると書いた。思い出して欲しい。ボトムズという物語は、フィアナと邂逅することで始まる。時系列的にはOVA『野望のルーツ』からだが、ペールゼンというキャラクタからみた、キリコの過去への遡行であって、ワイズマンへと至る物語の道筋において、キリコの特殊性(異能性)を描くべく挿入されたと考えるのが妥当だろう。しかし敢えて穿った見方をしてみれば、ペールゼンがPSの開発へと向かう最初の一撃は、キリコの生誕その瞬間であったことからも、フィアナというPSとキリコという異能者の出会う機会を補完しているエピソードともいえるだろう。
『ボトムズ』というアニメそのものが我々に視覚され得るのはキリコただ一人の状態ではありえず、そこには常に直接的間接的にフィアナがいる状況でしかありえない。OVA『赫奕たる異端』はフィアナが死ぬという結末でファンの間では評判が悪いが、現時点でボトムズという作品はこれを以て最後になっていることは、我々がキリコの物語を見ていたのではなく、キリコを見ていたフィアナの物語であったことを皮肉にも裏付けてしまっている。だからフィアナが死んだ時点で、キリコは視覚されない。つまり、キリコを巡る物語は終わる。
ここで注目したいのは、フィアナというキャラクタが設定上PS、つまり作り物であったことにある。これがもし単なる一女性キャラクタであったなら、ここまで大きな存在にならなかっただろう。それはPSの寿命とかそういった設定上のことではない。少々メタ的な物言いになってしまうが、それは『ボトムズ』が実写ドラマではない、アニメという画で出来上がった虚構の表現媒体だからだ。もちろん、実写ドラマでアンドロイドと恋に落ちる話はあるし、それだってデータとて記録されたメデイアというまがい物であることに変わりない。最近では役者だってどこまでCGだかわからないのだから。
しかし、問題は観照にある。実写の場合、劇場のスクリーンに投影されたものが単なる化学的に視覚される虚像の世界だったとしても、撮影された段階では人間が直接演じている。鑑賞者にとって、いつ出会ってもおかしくない、同一の可能世界の住人が写っているので、それそのものに虚構性を喚起される機会は余程、フィクションの虚構性を問う内容のドラマでない限り、リアリズムの名の下に演技は実際の人間として表現されてしまう。しかしアニメの場合、いくらリアルな描写を目指したところで、アニメとしてリアルに感じられるだろう、感情移入できるであろう表現ということに留まり、引っ繰り返っても、あんな髪型や目のでかい人間がリアルであるはずはない。それは暗黙のルール、記号としてあるから、その上での表現として感情移入が可能になるのだが、そういったアニメの世界であって、先に実写の例で述べたような、フィクションの虚構性を問う内容のドラマがあったら、実写よりもアニメのほうが「オマエが虚構だろ!?」と突っ込みたくなるような顔をしているに違いない。
作中の登場人物が自らの存在に対して、己は何者なのか?といった問いを立てる場合、
[アニメのキャラクタが自らが実在することを疑う]
のと
[俳優が自らが実在することを疑う]
のとでは、どちらが疑うことについての違和が明瞭か、言わずもがなだろう。作品世界というレベル、現実世界と想定するレベルの2つがあるとして、我々鑑賞者は俳優と立脚する立ち位置が一緒だから、作品の虚構と現実世界という2つの対比しかないが、アニメの場合、アニメキャラが現実としている立ち位置と鑑賞者の立ち位置が違うので、アニメキャラにとっての現実と虚構という2レベルの対比に加え、鑑賞者の立ち位置である現実世界と鑑賞しているアニメ作品との対比があり、それは
[アニメ世界の虚構と現実の2レベル]:[鑑賞者の現実の虚構と現実の2レベル]
という2つのレベルがそれぞれの2レベルを内包している形となる。つまり、映像を鑑賞するという行為と同じ関係が鑑賞対象の内部で観照関係が提示されていることになる。
『notイノセンス?』で述べたように、虚構と現実の入れ子構造は現実に戻ることが問題なのではなく、ましてや虚構と現実が区別つかないといったようなチープな倫理的問題でもない。その対比を物語として語る上で便利であるという方便に過ぎない。その対比のモデルが提示されればいいわけで、そこに映画という虚構が立ち現れる瞬間があるんじゃないか、と様々にこうした対比が虚構と現実を取りざたする作品ではモチーフにされているのではないか。だから、フィアナがPSであることで、虚構の対比の構造がわかりやすくなり、『イノセンス』における人形とリンクした。
作中にそうした対比のモチーフが多ければ多いほど、対比構造は明瞭になると同時に、キャラクタの抱く疑念がより深く立ち表れるようになる。セクサロイドが如何にも作り物という効果音などの演出されていることを既に述べたように、象徴として、映画のイントロ部分、わざわざ胸を開いて嘘モノの人形であることをぶちまけ、そこにバトーが弾丸を撃ち込むという印象的なシーンでタイトルに繋げているのは、この映画がどんな映画かを象徴するにはこれ以上ない見せ方だろう。これは『ボトムズ』にも容易に妥当する。TVシリーズのオープニング、スコープドックのレンズのUPで始まる。鑑賞者が作品をみていると同時に、作品側がコチラにメンズを向けている。つまりお互いにみているという観照の状態で始まり、OPのラストはレンズにキリコの陰が映って終わる。そのキリコを見る目線は!! これは単なる偶然の一致かもしれないが、穿ちすぎの妄想と片付けるにはあまりにも『ボトムズ』という作品を、そしてキリコのポジションを一瞬で表現するには出来すぎていやしないか!?
つまり、アニメの中でキャラクタが存在に問いを立てるのは、アニメの設定世界における作り物の虚構存在がいることが条件となる。自らを見つめなおす契機として、当たり前と思っていることに問いを立てる対象が求められる。同じ設定世界にいながら、そして自らと対等に渡り合いながら、決定的に違う存在に邂逅したとき、翻って自らは何かという問いを立てることができる。それは自らを写す鏡であり、即ち疑念を抱くものがみていると同時に見られている観照関係でなければならない。この条件を満たす対象として、PSがあり、サイボーグのバトー、もしくは愛玩用のセクサロイドにとっての生身の人間が位置する。
(続く・・・)

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