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監督・ばんざい! 雑感【後編】

前回のつづき
そういう目で見たらそんなエレメンツは枚挙に暇がないわけだが、今作はそうした構造面が鑑賞の楽しみに直結しない分、あくまで脇役的なところが逆に効果的で、そうした意味では『TAKESHIS'』以上にメタな映画だったように思う。その点では『TAKESHIS'』より好きかもしれない(その点で『TAKESHIS'』は期待しすぎちゃったかも)。ならばメインであるお笑いではどうかというと、劇場内での笑いは殆どなく退席者もいたほどで、一般的にはベタと目される笑いばかりだったと思う。でもそうでもなかったんじゃないかというのが個人的見解だ。バラエティでも回答ボタンの脇の机叩いたりというネタをよくやるが、太鼓を叩こうと振り上げたバチで自分の頭叩いたり、太鼓の脇叩いたりってお約束は多かった。それでコケる人間がお笑いじゃないってのもあるのだろうが、どうにも間が悪いというかワンテンポずれてる気がした。映画全体のテンポっていうのがあるから、その点を考慮したのかもしれないが、もしかしたらワザとかもしれない。というのもそういうベタをやりつつも、時間をずらして予想外の1ネタをかましてくるあたり、そのフリとしてベタを入れてるんじゃないかと穿ってしまう。江守徹が壇上に上がる際、階段で躓いたりマイクに頭ぶつけるのもお約束だが、間を空けてマイクが倒れるのは実に決まっていた。武はお笑いの人間が映画で本業をやる難しさ、というのをよく言っている。15年以上前ならマイクぶつけるくらいで本気で笑いが取れた。今回お笑いを入れる以上、それでは終わらないシカケる部分はかなり本気だったと思う。マイクにぶつけるとか、日常にあるもの、バラエティ番組のスタジオの中にあるものをいじるようなスタイルってのも自分が作り上げたようなもので、それをやりつつ、裏切る。仕掛ける。特にこのマイクが倒れるの間はハマってて相当しかけたんじゃないかと勝手に分析している。
また本人が時折TVなどで述懐しているように、若手のお笑いを見ては、飛ぶのが早いと言っている。例えば夫婦コントで旦那がただいま~って帰ってきて、食事にするかお風呂にするか聞かれて、ちょっとダジャレ的なギャグを入れたり下ネタ絡めたりして、徐々に普通の夫婦では有り得ないような飛んだボケへとシフトしていく。最初から非日常に飛んじゃうとお客さんがわからなくて世界に入れない、ついて来れないからだが、最近はこの飛びが早いと武はいうのだ。この夫婦コントの例で言えば、旦那がただいま~とドアを開けた瞬間、玄関で服を脱ぎだすとかね。もうこういうコントでは嫁が食事にするかお風呂にするかって聞くのが自明だから旦那は風呂と決めているから脱いじゃう。嫁が早いだろ!?ってツッコンで、もう一度帰ってくるところからやり直すと、今度はほぼ全裸で帰ってくる。これがエスカレートすると玄関で脱ぐシークエンスさえ省略されてくるし、それに対するツッコミもなくなってくる。ツッコミっていうのは、タカ&トシとかになるとポジショニングが変わってくるのだけど、基本ボケを説明するためにツッコんでいる。特にこうした飛びでは重要で、ボケがボケ倒して飛びまくるとお客さんがついて来れなくなるので、ツッコミを入れることで現実的な解釈をいれボケの意味を暗に説明する。
シュールコントの類はこのツッコミがないケースが多く、お約束や定石だとこうだから、こういうボケになるという、そのお約束や定石を分かっていないと分けわからんとなる。だから定石の部分を日常どこにでもあったりダレにでも経験のあることにするってことが多く、逆に日常の何処を切り取るのか、芸人のセンスが問われる。この手のシュールコントを初めにTVレベルでやったのが武じゃないかと個人的には思っている(ちゃんと調べたわけじゃないんで、詳しい方ご教授下さい)。ツービートの頃は漫才に残像現象やフレミング左手の法則といったギャグをいれていて、凡そ日常的でないネタなのだが、通常の漫才の形式に入れるという異化効果という路線だったと思う。タケちゃんマンやらを経て、スタジオでVTRを見るだけのような番組が増える中、ちょっとしたところでコントをやるのを見かけるようになった。なかでも印象的なのが正月特番の爆笑ヒットパレードでのコントで、お能で能楽堂の端から武が歩いてくるというもの。途中つまずいたりとあるんだけど、別のときに武自身が能について「もっと早く歩けよ!」といっていたから、こうした日常のネタから、早く歩けないんだから・・・みたいな感じでコントが作られてるんじゃないかと思った。
とんまつりJAPAN―日本全国とんまな祭りガイド (集英社文庫)しかしこれはまだコケるとかいうわかりやすさはあるのだが、別段ツッコミが入るわけじゃないし、躓いたとしても痛がる顔をちょっとするだけで本人は喋らず黙々とゆっくり歩くというだけだから、当時は相当シュールだったと思う。今でこそみうらじゅんが「とんまつり」だとか「ゆるきゃら」とか、日常にあってでも伝統だからとか行政でやってることだからとか、なんだかわからない理由で高い位置に祭られちゃってるけど、改めてみればオカシイよってことに目を向ける方法論みたいのがだいぶ広まってきているけど、それをお笑いとして黙って黙々とやる武は相当早かったと思う。爆笑ヒットパレードのこのシリーズもエスカレートして、海辺でなまはげみたいな格好をした軍団がかがり火の前で太鼓叩いて舞を踊ってるだけっていう風になってくる。当時これなんか最高に面白くって、未だに鮮烈に憶えているが、現在の伝統芸のポジションとか、ムリから保存している感とか、それを淡々とニュースとしてTV放映してるNHKの感覚のズレみたいなものがバックグラウンドにないと、単にタケシがやってるってだけでは面白くないものになってしまっている。そういえば先の能、『監督・ばんざい!』の劇中劇のホラー映画のタイトルが能楽堂で、怖くもなんともないタイトルだとツッコまれていたが、能とかこの辺がタケシにとっての笑いのコアな部分なんじゃないかと再認識させられた。あ、そうだ、劇中タケシの田舎のシーンで結婚式で「とんまつり」が催され、単に踊ってるだけってシーンがあったっけ。
うわっ、気づけばエライ長いことお笑いについて語っちゃったのでこの辺で。ここからはちょっと気づいたことを。全体的にロケがよかった。井出博士のロケット打ち上げシーンは地方の採掘所のようだが、火薬を使うような特撮ではこうしたロケ地はおキマリなものの、この映画では背後のセメント工場だか採掘所みたいな施設が妙に廃墟趣味してて良かった。それと三丁目の夕日的な劇中映画では全般どこで見つけたのか?セットなのか?ってくらいボロい家があったりして、足立区でも壊滅的だぞって風景がインパクトあった。この昭和30年代映画、単純に1本として見てみたい。北野映画はどれもロケがいいのだが、今回も秀逸だった。そうそう、カンヌ用につくられた3分映画。これも同時公開だったのだが、古びた映画館が壮観で、田舎に佇む風景はCGだろうか、幻想的ですらあった。
ただ、音楽は残念。かつての久石譲の音楽群は、久石音楽はあまり好きでないものの、偶発的にか、好きなものがあったのだが、最近作品ごとに音楽が違っている。今回のはコント番組のホワホワとしたベタベタBGMで、正直萎えた。多分あえてこうしたのだろうけど、チョット行き過ぎな気が。。。
時代もあるだろうが、笑い的にはビートたけしとして監督された『みんな~やってるか』の方が素直だったように思う。そういう意味で今作はお笑いなのかメタなのか、中途半端かもしれないが、お笑いというベースから生まれるメタなもの、その不思議な感覚が映画全体を支配していて、監督の作品の中でもきわめて異様な1本になったんじゃないかと。よかったというより、好きです!ってところかな。
[了]

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監督・ばんざい! 雑感【前編】

北野武「監督・ばんざい!」公式ガイドブック※長らく更新せず申し訳ない。
 久々の本来の映画話だからか、気軽に感想を書くつもりがクソ長くなってしまったので分けます。

●以前のネタ:
 『TAKESHIS'』観る前
 『監督・ばんざい!』観る前


TAKESHIS'どうにも観終った後ある感慨が頭をもたげて仕方なかったのだが、後日たまたま手に取った雑誌にそれを裏付ける北野監督自身の言葉が綴られていた。やはり『監督・ばんざい!』は『TAKESHIS'』の延長線上にあったのだった。
パラパラページを繰っただけできちんと文脈を追って読んだわけではないのだが、どうも『TAKESHIS'』路線を3部作と捉えようとしているようで、もう1本監督するつもりがあるようだ。『監督・ばんざい!』の原題はナンチャラ00/31っていったかな。ナンチャラの部分は忘れたが、00の部分はなんか数字が入っていたと思う。31ってのは監督が好きな素数で、生涯で31本取りたいという気持ちがあるらしい。31本というと半分以上残っている状態だが、『監督・ばんざい!』の中で数本とったようなものだから、あと9本とかいってたかな。この3部作が終わったらそれこそ座頭市2みたいなの気楽に取りたいっていっていたが、それはともかく、今作の原題はフェリーニの81/2のモジリだっていうことからも窺えるように、3部作とあってメタフィクション色が強い。もちろんウルトラバラエティと銘打たれているように、基本お笑いなのだが、『TAKESHIS'』が重い感じに正面切ってメタフィクションやったのに対し、今作はバラエティという体裁で実はメタフィクションだったというつくり。
『TAKESHIS'』のように構造的に見た目に入れ子になっているわけではなく、劇中の北野監督が様々の映画を撮る、その思考過程がナレーションによってフォローされ、ストーリーとしては単に悩みながら様々の映画を撮ってみるというわかりやすさがしっかりと柱になっているので、グチャグチャ感はない・・・はずなのだが、最後にSFを撮ることになるあたりから混沌が始まる。劇中で想定される現実レベルでの北野監督は姿を消し、劇中のSF映画がいきなりメイン、主軸として展開する。これまで現実レベルの武の身代わりであったタケシ人形が劇中劇の中に入り込んでくる。気づくとその中に井出博士のロボット実戦映像やらさらに劇中劇がさり気無いながらも仕込まれており、そもそも監督武とタケシ人形との境界も曖昧になっていき、ラストはこれまでの昭和30年代やらホラーやら様々の劇中劇の舞台が登場して、ドカーンと崩壊する、まさにデウスエクスマキナ状態で幕を閉じる(『TAKESHIS'』と比べれば大団円ってことで)。
今作は都合が悪くなると人形になる武ってのが非常にお茶目に描かれていて、彼自身のシャイなキャラクタと相まってそれだけで楽しめる作品なのだが、殴られたり詰問されたりすると人形=作り物になるという、石になる的なお笑い効果に止まらず、もっと重要な役割があるような気がしてならない。オープニングでCRTやレントゲン検査を人形に施すわけだが、オチとしては医者に「今度本人連れてきてください」という、シュールコントと思いきやただ人間ドック受けたくないから人形を身代わりにさせただけというギャグなのだが、この一連の検査の中で人形に穴が開けられ胃カメラを入れるシーンがある。なかなか間抜けなカットで画的に気に入っているのだが、この映画自体を象徴していると思う。つくられた分身の武の内部を覗く・・・それこそが劇中でつくられる劇中劇を覗くこと、つまりこの映画そのものとなっている。
・・・つづく
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