監督・ばんざい! 雑感【後編】

前回のつづき
そういう目で見たらそんなエレメンツは枚挙に暇がないわけだが、今作はそうした構造面が鑑賞の楽しみに直結しない分、あくまで脇役的なところが逆に効果的で、そうした意味では『TAKESHIS'』以上にメタな映画だったように思う。その点では『TAKESHIS'』より好きかもしれない(その点で『TAKESHIS'』は期待しすぎちゃったかも)。ならばメインであるお笑いではどうかというと、劇場内での笑いは殆どなく退席者もいたほどで、一般的にはベタと目される笑いばかりだったと思う。でもそうでもなかったんじゃないかというのが個人的見解だ。バラエティでも回答ボタンの脇の机叩いたりというネタをよくやるが、太鼓を叩こうと振り上げたバチで自分の頭叩いたり、太鼓の脇叩いたりってお約束は多かった。それでコケる人間がお笑いじゃないってのもあるのだろうが、どうにも間が悪いというかワンテンポずれてる気がした。映画全体のテンポっていうのがあるから、その点を考慮したのかもしれないが、もしかしたらワザとかもしれない。というのもそういうベタをやりつつも、時間をずらして予想外の1ネタをかましてくるあたり、そのフリとしてベタを入れてるんじゃないかと穿ってしまう。江守徹が壇上に上がる際、階段で躓いたりマイクに頭ぶつけるのもお約束だが、間を空けてマイクが倒れるのは実に決まっていた。武はお笑いの人間が映画で本業をやる難しさ、というのをよく言っている。15年以上前ならマイクぶつけるくらいで本気で笑いが取れた。今回お笑いを入れる以上、それでは終わらないシカケる部分はかなり本気だったと思う。マイクにぶつけるとか、日常にあるもの、バラエティ番組のスタジオの中にあるものをいじるようなスタイルってのも自分が作り上げたようなもので、それをやりつつ、裏切る。仕掛ける。特にこのマイクが倒れるの間はハマってて相当しかけたんじゃないかと勝手に分析している。
また本人が時折TVなどで述懐しているように、若手のお笑いを見ては、飛ぶのが早いと言っている。例えば夫婦コントで旦那がただいま~って帰ってきて、食事にするかお風呂にするか聞かれて、ちょっとダジャレ的なギャグを入れたり下ネタ絡めたりして、徐々に普通の夫婦では有り得ないような飛んだボケへとシフトしていく。最初から非日常に飛んじゃうとお客さんがわからなくて世界に入れない、ついて来れないからだが、最近はこの飛びが早いと武はいうのだ。この夫婦コントの例で言えば、旦那がただいま~とドアを開けた瞬間、玄関で服を脱ぎだすとかね。もうこういうコントでは嫁が食事にするかお風呂にするかって聞くのが自明だから旦那は風呂と決めているから脱いじゃう。嫁が早いだろ!?ってツッコンで、もう一度帰ってくるところからやり直すと、今度はほぼ全裸で帰ってくる。これがエスカレートすると玄関で脱ぐシークエンスさえ省略されてくるし、それに対するツッコミもなくなってくる。ツッコミっていうのは、タカ&トシとかになるとポジショニングが変わってくるのだけど、基本ボケを説明するためにツッコんでいる。特にこうした飛びでは重要で、ボケがボケ倒して飛びまくるとお客さんがついて来れなくなるので、ツッコミを入れることで現実的な解釈をいれボケの意味を暗に説明する。
シュールコントの類はこのツッコミがないケースが多く、お約束や定石だとこうだから、こういうボケになるという、そのお約束や定石を分かっていないと分けわからんとなる。だから定石の部分を日常どこにでもあったりダレにでも経験のあることにするってことが多く、逆に日常の何処を切り取るのか、芸人のセンスが問われる。この手のシュールコントを初めにTVレベルでやったのが武じゃないかと個人的には思っている(ちゃんと調べたわけじゃないんで、詳しい方ご教授下さい)。ツービートの頃は漫才に残像現象やフレミング左手の法則といったギャグをいれていて、凡そ日常的でないネタなのだが、通常の漫才の形式に入れるという異化効果という路線だったと思う。タケちゃんマンやらを経て、スタジオでVTRを見るだけのような番組が増える中、ちょっとしたところでコントをやるのを見かけるようになった。なかでも印象的なのが正月特番の爆笑ヒットパレードでのコントで、お能で能楽堂の端から武が歩いてくるというもの。途中つまずいたりとあるんだけど、別のときに武自身が能について「もっと早く歩けよ!」といっていたから、こうした日常のネタから、早く歩けないんだから・・・みたいな感じでコントが作られてるんじゃないかと思った。
とんまつりJAPAN―日本全国とんまな祭りガイド (集英社文庫)しかしこれはまだコケるとかいうわかりやすさはあるのだが、別段ツッコミが入るわけじゃないし、躓いたとしても痛がる顔をちょっとするだけで本人は喋らず黙々とゆっくり歩くというだけだから、当時は相当シュールだったと思う。今でこそみうらじゅんが「とんまつり」だとか「ゆるきゃら」とか、日常にあってでも伝統だからとか行政でやってることだからとか、なんだかわからない理由で高い位置に祭られちゃってるけど、改めてみればオカシイよってことに目を向ける方法論みたいのがだいぶ広まってきているけど、それをお笑いとして黙って黙々とやる武は相当早かったと思う。爆笑ヒットパレードのこのシリーズもエスカレートして、海辺でなまはげみたいな格好をした軍団がかがり火の前で太鼓叩いて舞を踊ってるだけっていう風になってくる。当時これなんか最高に面白くって、未だに鮮烈に憶えているが、現在の伝統芸のポジションとか、ムリから保存している感とか、それを淡々とニュースとしてTV放映してるNHKの感覚のズレみたいなものがバックグラウンドにないと、単にタケシがやってるってだけでは面白くないものになってしまっている。そういえば先の能、『監督・ばんざい!』の劇中劇のホラー映画のタイトルが能楽堂で、怖くもなんともないタイトルだとツッコまれていたが、能とかこの辺がタケシにとっての笑いのコアな部分なんじゃないかと再認識させられた。あ、そうだ、劇中タケシの田舎のシーンで結婚式で「とんまつり」が催され、単に踊ってるだけってシーンがあったっけ。
うわっ、気づけばエライ長いことお笑いについて語っちゃったのでこの辺で。ここからはちょっと気づいたことを。全体的にロケがよかった。井出博士のロケット打ち上げシーンは地方の採掘所のようだが、火薬を使うような特撮ではこうしたロケ地はおキマリなものの、この映画では背後のセメント工場だか採掘所みたいな施設が妙に廃墟趣味してて良かった。それと三丁目の夕日的な劇中映画では全般どこで見つけたのか?セットなのか?ってくらいボロい家があったりして、足立区でも壊滅的だぞって風景がインパクトあった。この昭和30年代映画、単純に1本として見てみたい。北野映画はどれもロケがいいのだが、今回も秀逸だった。そうそう、カンヌ用につくられた3分映画。これも同時公開だったのだが、古びた映画館が壮観で、田舎に佇む風景はCGだろうか、幻想的ですらあった。
ただ、音楽は残念。かつての久石譲の音楽群は、久石音楽はあまり好きでないものの、偶発的にか、好きなものがあったのだが、最近作品ごとに音楽が違っている。今回のはコント番組のホワホワとしたベタベタBGMで、正直萎えた。多分あえてこうしたのだろうけど、チョット行き過ぎな気が。。。
時代もあるだろうが、笑い的にはビートたけしとして監督された『みんな~やってるか』の方が素直だったように思う。そういう意味で今作はお笑いなのかメタなのか、中途半端かもしれないが、お笑いというベースから生まれるメタなもの、その不思議な感覚が映画全体を支配していて、監督の作品の中でもきわめて異様な1本になったんじゃないかと。よかったというより、好きです!ってところかな。
[了]

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監督・ばんざい! 雑感【前編】

北野武「監督・ばんざい!」公式ガイドブック※長らく更新せず申し訳ない。
 久々の本来の映画話だからか、気軽に感想を書くつもりがクソ長くなってしまったので分けます。

●以前のネタ:
 『TAKESHIS'』観る前
 『監督・ばんざい!』観る前


TAKESHIS'どうにも観終った後ある感慨が頭をもたげて仕方なかったのだが、後日たまたま手に取った雑誌にそれを裏付ける北野監督自身の言葉が綴られていた。やはり『監督・ばんざい!』は『TAKESHIS'』の延長線上にあったのだった。
パラパラページを繰っただけできちんと文脈を追って読んだわけではないのだが、どうも『TAKESHIS'』路線を3部作と捉えようとしているようで、もう1本監督するつもりがあるようだ。『監督・ばんざい!』の原題はナンチャラ00/31っていったかな。ナンチャラの部分は忘れたが、00の部分はなんか数字が入っていたと思う。31ってのは監督が好きな素数で、生涯で31本取りたいという気持ちがあるらしい。31本というと半分以上残っている状態だが、『監督・ばんざい!』の中で数本とったようなものだから、あと9本とかいってたかな。この3部作が終わったらそれこそ座頭市2みたいなの気楽に取りたいっていっていたが、それはともかく、今作の原題はフェリーニの81/2のモジリだっていうことからも窺えるように、3部作とあってメタフィクション色が強い。もちろんウルトラバラエティと銘打たれているように、基本お笑いなのだが、『TAKESHIS'』が重い感じに正面切ってメタフィクションやったのに対し、今作はバラエティという体裁で実はメタフィクションだったというつくり。
『TAKESHIS'』のように構造的に見た目に入れ子になっているわけではなく、劇中の北野監督が様々の映画を撮る、その思考過程がナレーションによってフォローされ、ストーリーとしては単に悩みながら様々の映画を撮ってみるというわかりやすさがしっかりと柱になっているので、グチャグチャ感はない・・・はずなのだが、最後にSFを撮ることになるあたりから混沌が始まる。劇中で想定される現実レベルでの北野監督は姿を消し、劇中のSF映画がいきなりメイン、主軸として展開する。これまで現実レベルの武の身代わりであったタケシ人形が劇中劇の中に入り込んでくる。気づくとその中に井出博士のロボット実戦映像やらさらに劇中劇がさり気無いながらも仕込まれており、そもそも監督武とタケシ人形との境界も曖昧になっていき、ラストはこれまでの昭和30年代やらホラーやら様々の劇中劇の舞台が登場して、ドカーンと崩壊する、まさにデウスエクスマキナ状態で幕を閉じる(『TAKESHIS'』と比べれば大団円ってことで)。
今作は都合が悪くなると人形になる武ってのが非常にお茶目に描かれていて、彼自身のシャイなキャラクタと相まってそれだけで楽しめる作品なのだが、殴られたり詰問されたりすると人形=作り物になるという、石になる的なお笑い効果に止まらず、もっと重要な役割があるような気がしてならない。オープニングでCRTやレントゲン検査を人形に施すわけだが、オチとしては医者に「今度本人連れてきてください」という、シュールコントと思いきやただ人間ドック受けたくないから人形を身代わりにさせただけというギャグなのだが、この一連の検査の中で人形に穴が開けられ胃カメラを入れるシーンがある。なかなか間抜けなカットで画的に気に入っているのだが、この映画自体を象徴していると思う。つくられた分身の武の内部を覗く・・・それこそが劇中でつくられる劇中劇を覗くこと、つまりこの映画そのものとなっている。
・・・つづく
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「時間ですよ」を作った男―久世光彦のドラマ世界 雑感

「時間ですよ」を作った男―久世光彦のドラマ世界

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書評/ルポルタージュ



故・久世光彦のドラマ全盛期といえば、「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」といった水曜劇場のホームドラマ群となるわけだが、年齢的にその時代は自分が生まれて間もない頃で、記憶には殆ど残っていない。自分の年齢的に言えば、「せんせいの鞄」などのホームドラマ以外を除けば、本著でも触れられているが、お茶の間的ホームドラマというものがトレンディドラマという潮流により表舞台から引き摺り下ろされ、その後にリバイバル的に東京電話のTVCMなどでスポット的に復活したものを見るに止まるだろうか。
しかし自分にとっては、寧ろ間接的に久世ドラマで育ったと思しき、こういってよければ久世チルドレンによる様々のジャンルに潜在するエッセンスから感じえたものが、実は久世光彦という一人の演出家に結実したという衝撃の方がより、久世作品というものを意識させられるものだった。それは作り手側が恐らくは久世という演出家を意識してなくても、ちょっとしたところに現れるものだ。


思い出されるのは、ダウンタウンやウッチャンナンチャンが出演していた「夢で逢えたら」という番組中のドラマコントのコーナー。東京は根津の老舗扇屋で家族とその使用人?(的な扱いの拳銃を発砲する警察官、松本扮するガララニョロロ)が繰り広げる「いまどき下町物語」というドタバタホームコメディ。舞台設定も明らかに久世ドラマといったもので、メインのセットが食卓。しかもカメラ位置手前には誰も座っていないという久世スタイル。
松本がどこまで「夢で逢えたら」の番組づくりに関わっていたか知らないが、ベタな関西よりの笑いが好きなようにみえて、実は竹中直人、いとうせいこう、シティボーイズなどが参加していたRGS(ラジカル・ガジベリビンバ・システム)に影響を受けていたり、自著においても「ひょうきん族」的な笑いよりも「ドリフ」的な笑いが好きだといったことを書いており、ウチワ受け的なシュールさ・わかり辛さよりも、スラップスティックなシュールさ、脈略の無さそうに見える不条理さを嗜好しているに思う。本著にもあるが久世は「8時だよ全員集合」の演出も手がけていることに妙な符号を感じてならない。


話が逸れまくった。で、以上に関わらず他にも随所に久世を感じる瞬間というものがある。詳細を述べればきりが無いが、特に昭和的な家族とその周辺の在り様というものが、ドラマのセットなどで独特の雰囲気を醸し出している、と取れる瞬間。昭和レトロというキーワードで昭和的なる食卓も多くメディアでは散見されるが、久世のそれとは、感覚的なものなので言葉で表現できないが、明らかに別物に感じるのだ。
本著から初めて知りえたことなのだが、水曜劇場放映時にして、ああした食卓の風景は既に忘れられようとしていたものであり、時代は既に団地などでの核家族化が叫ばれていた。同局ということもあり、番組内でウルトラマンとリンクするという件があったが、そういえばウルトラセブンで象徴的に撮影されていた日常の風景は団地だった。


前置きが長くなりすぎたが、そんな自分と久世演出の関係にあって、本著は自分が振り返れなった時間の空白を埋めてくれるものとなった。と同時に、その空白が埋められることで、久世演出が輝いていた時代と思想、著者なりに久世演出を斬る事で、読者である自分なりの久世作品を見る方法論というものが見出せるんじゃないかという期待があったのだが、そこまでに至る事は無かった。
久世作品をほぼ時系列でまとめるだけでも大変なことだとは思う。一つの時代の流れを追うことで、その時々の記憶が読者それぞれに思い返されることだろうし、記憶の無いものには想像を掻き立てさせるものがあるだろう。しかし、久世本人と親交があった著者が膨大なインタビューからまとめられた割には、久世本人の言葉が少なく、著者から見た個人史観といった色合いが濃く、それも表面だけをなぞったような当たり障りの無い感慨に終始している。客観的に時代を俯瞰するには主観は排除された方がいいとは思うが、ならもっと資料的な側面が欲しい。多くを久世本人の言葉で組み合わせることで纏め上げることだって不可能ではないはずだ。関連レコードのジャケットなども掲載されているが白黒の小さな図版では物足りない。「あった!あった!」的に当時を振り返るにはいいツールかもしれないが、どっちつかずの中途半端な内容に、過剰な期待をした自分が悪いのか、後半読み進むにつれ猛烈な物足りなさでいっぱいになった。
敢えて具体的には挙げないが、久世関連の書籍はこれ以外にもいくつか出ている。個人的な興味から時間をかけて主要なものを読んでみたいが、それから、それらと比較して本著のポジションというものを捉えてみたいと思う。

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初日には行かない!

監督・ばんざい!』『大日本人』の公開を明後日に控え、メディア露出も盛んな昨今、あんな記事をUPした手前、なんか書いておかなくちゃなぁという衝動にかられた。というのも、あの記事を書いてからというもの、このブログではこれまでにないほどのアクセス数で、なんかこう、無言の圧力のようなものを感じているのだ。
なんかね、ファンだとかいうと、初日並ぶとか、そういう風に思われがちだし、実際のところ、学生の頃はそういうことをしていたわけで。でも映画だから、いつ見ても一緒だしね。どうせ見るなら空いてる時に確実にいい席確保してみたい。1日でも早く見たいという欲求がなかったかといえば嘘になるが、それよりも昔は初日という名のイベントに参加してる感覚が強かった。なんかそういうの、肉体的にというより、精神的に疲れちゃった。そもそも仕事でいけないし、まぁ学生の特権ということで、いいんじゃないでしょうかと。

で、みる前に情報とか入れない性質なのだけど、大日本人はこっちがアクションおこさなくても情報が向こうから入ってくる。それらによると、どうもお笑いみたいね。自分が抱いていた危惧はどうやら杞憂に終わりそうだが、今朝のめざましTVで松本本人が気になる発言をしていた。
TVでコントをつくれないから映画で
といった主旨だったように記憶している。加えて、映画でやる以上、TVのコントとといっしょだと思われないようなつくりにしたとも。
松本のコントやらない発言は、以前の漫才やらない発言と同様、折に触れ耳にしてきたが、現在のTVでのお笑いに求められているものがコントのような作り上げるお笑いではないという危惧に依拠する発言であるとともに、自らがごっつを復活させたときの反応が大きく響いているように思えてならない。あの特番は非常に良く出来たと個人的にはとても楽しませてもらえ、再レギュラー化を予感させるものだったが、数字は10%ほどと泣かず飛ばずで、松本への批判の声が大きかったと本人が述懐していたように思う。なんでアレを否定するのか、まったくもって理不尽極まりない状況だし、自分の周りのアレをみた多くの人間の声とは相反するものだった。受け手の側の声は視聴率という数字でしか現れず、実際の声としては業界内でしか囁かれないものなのだろうか。
もしそうだとするならば、映画界というよりTV業界側からの評価というのが、松本映画が今後多産されるかの鍵を握っている気がしてならない。コントすらつくれない状況にある世界、これはもしかしたらこれまで危惧していた状況より想像を超えた酷い状況が待っているかもしれない。
北野VS松本という構図が作られているようだが、なにをもって勝ち負けとするのか。これまでの北野映画の興業収益パターンから行くと今回は酷評パターンな気がするので、現状では話題性とダレも未見と言う要素で松本に分があると思うが、ここでも実際に5年10年とひとつの映画を嗜好し続ける受け手の評価ではなく、公開して暫くの間だけの興業成績がもっとも力を持ってしまうのだろう。ひとつの映画が好まれ続ける状況というのは、その数字では出てこないのに、大きなお金の動く世界、やはりそこでみるしかないのだろうか。
映画を文化とあげつらう気はないが、1受け手として、自分の嗜好の仕方があまりにも反映されない状況に歯がゆさを覚えてならない。

ともあれ、2作とも見たら、なんか書くんで。

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北京原人 Who are you?

ストックしていた映画レビューをUPをば。
思い起こせば、初日に朝から並んだよなぁ・・・早朝、列が出来ていて、人気だなぁと思ったら、別のアニメかなんかの先行前売りの列で、結局北京原人で並んでたのオレラだけだったなぁ・・・

北京原人 Who are you?多くの人がいうように、丹波映画。ノリノリで絶叫する丹波がみれるのは貴重。役のノリは大霊界の悪ノリ。
それに、何といってもSFなところが偉い。最初のシャトル内の合成も素晴らしいが、BGMに宇宙音が用いられているのが素晴らしい。子供の科学とかでかかりそうな、「ピヨヨヨヨ~ン」という、ピコピコな音。宇宙の科学館みたいな観光地(どこにあるんだ?)でかかってそうな曲。子供の夢を壊さない配慮は素晴らしい。
ポッドが落下して北京原人が島に住みだすシーンの、投げる石の迫力は、CGの可能性を広げる斬新なまでのインパクト。ここで観客びびらせてどうする?
陸上競技で公開を許されていない北京原人を白昼の下にさらそうという誰も考えない方法は圧巻。二代目引田テンコウも登場。佐藤蛾次郎とロシアギャルが2ショットも素晴らしい。宙に浮く象マンモスの技術力も凄い。
そして何といってもラスト。象マンモスに乗って先祖返りする本田博太郎にむかって何の説明もなしに「走れ、もっと走れ」と脈絡なしに絶叫する緒方直人(神田利則ではない)、そしてエンディングのフェイバリット・ブルーが、我々を脱出不可能の迷宮へと誘ってくれる。

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大日本人は監督ばんざい?

気が付けばもうすぐGW。それも過ぎれば1ヶ月で6月がやってくる。
このブログでは映画のことを書いているにも関わらず、年間で映画を殆ど見ない人間なのだが、たまに劇場に足を向けようかと思わせる2作が6/2に同時公開される。北野武の『監督・ばんざい!』と松本人志の『大日本人』だ。
TAKESHIS'みんな~やってるか!『監督・ばんざい!』の方はざっと概要を見るに、『TAKESHIS'』同様『みんな~やってるか』リベンジ的意味合いが濃そう。みてみたら大どんでん返し・・・というのを期待しているが、問題は『大日本人』。
内容に関して全く公表されていないというのが宣伝効果となっているようで、『監督・ばんざい!』の公開日と被ることもあって、第二の北野的な注目をされているフシがある。今回はこのことについて思うところがとても大きいので述べさせていただく。

まず、『大日本人』は松本人志第1回監督作品となっているが、第1回監督作品は『頭頭』ではないのか(後日談:監督は山口将哉なのでクレジット上第1回監督作品で間違いはない)。もしかしたら北野式に『頭頭』リベンジかとも思ったが、いまのところそういった兆候がみられない。
まぁそれは個人的関心としてどうでもいいことで、仮に、松本が第二の北野になるべき作品を作り上げたとして、果たしてそれをダレが、引いては何人の映画関係者が第二の北野的作品と認知できるだろうか。
ソナチネご存知の通り、北野映画の評価とは逆輸入であって、日本人が自国で評価したわけではない。今となっては代表作とされ北野映画ベスト1にあげる輩も少なくない『ソナチネ』だが、公開当時評価していたのは淀川長治以外に記憶していない。
もちろん、リアルタイムではなく後追いでビデオを見るなりして感じ入った者や、公開当時は発言力のなかった映画関係者もいることだろう。そうだったとしても、ここまで多くの人間が評価する映画なら、公開当時もうちょっとなんとかならなかったのだろうか。
REX 恐竜物語 初回限定生産エディションそれくらい、公開当時の状況は悲惨だった。殆どインターネットの普及してなかった時代、北野ファンクラブと新聞の劇場情報から公開情報を得、歌舞伎町の劇場へ向かった。そこは同じ名前で1・2・3とハコ分かれている劇場で、名の通った映画館だからさぞ広い劇場かと思ったら、1から3だか4のハコに変更になったとの掲示があり、入ってみると異様に天井の低い、百人も入ればいっぱいなくらいのキャパだった。初日か翌日だったと記憶している。こんな空間で上映されるのかという驚きと、この空間に1000円ほどの値段を払う腹立たしさったらなかったが、余計に神経を逆撫でさせたのは、安達祐美が歌う『REX恐竜物語』の主題歌が休憩時間中エンドレスで流れていることだった。
その男、凶暴につきREXの製作はソナチネ同様、奥山和由であることから、ソナチネという映画の内容からは想像だにできない異様な劇場空間が生まれたといえば納得がいくかもしれない。奥山は『その男…』で北野を監督に大抜擢し、ソナチネに至るまで北野映画をつくり続けられるよう屋台骨になってきた人物といって過言ではないだろう。
というのは、興業的に振るわない映画を4本もつくれたというのはまず常識では考えられない。しかも淀長以外に公に評価する人間がいない状況で、4本つくれたというのは奥山の人力なくしては成し得なかっただろう。故に松竹本社からの突き上げが強く、遂にソナチネを以て北野との関係が途切れる。
HANA-BI奥山という存在があったからこそ、あのソナチネが存在し得、その後の『HANA-BI』にも繋がったのだが、当時奥山は映画監督として竹中直人を見出す他、カンヌで賞を取った今村昌平の『うなぎ』も手がけているが興行成績に結びつかず、94年の『RAMPO』では監督として招聘した黛りんたろうと衝突し自らか監督した2ヴァージョンで劇場公開され話題を呼び興行的にも成功を収めたがそのやり口がさらに傷口を広げ、98年に松竹を解雇されている。ちなみにソナチネの公開は93年。
北野映画はというと、ソナチネ以後テアトル系の単館ベースの公開となり、この時期に『みんな~やってるか』が公開されている。

奥山は解雇後チームオクヤマを結成し、『地雷を踏んだらサヨウナラ』『TAIZO』『IZO』など話題作・ヒット作を生んでいるので結果オーライには見えるが、日本初の映画投資ファンドFFEは3作目途中に解任劇により反故になってしまっている。北野映画もHANA-BIでは配給にヘラルドが付いてロードショー公開されたが、そこまでの道のりには悲惨そのものであり、北野作品がここまで評価されているにも関わらず、その根幹を担った奥山には現状を以てしてもあまりにも報われていないと思うのは自分だけだろうか。
自分が懸念しているのは、極個人的な感想として松本の映画が衝撃的だったとして、そう思った映画関係者が素直に表に出せる状況であり、仮に興行的に振るわなかったとしても、映画を成立させるために尽力した人間を評価し、引き続き映画をつくらせるだけの土壌が今の日本映画界にあるのだろうか。大日本人がどういう人間が関わっていて、今後松本映画がどうなっていくかなんてわからない。ただ、現状というのは、ソナチネの頃と何ら変わっていないと思う。大日本人を海外の映画祭に持っていくという話ももう出来上がっているそうだが、そうでもしないと評価できないというのが現実だろう。後々、松本映画が数作を経て海外で評価されたとして、その時既に初期段階より尽力された人間が干されていた・・・なんてことが容易に想像できる。そうなってからでは遅いのだ。北野作品ではソナチネは生まれたが、もしかしたら、その人間が干されたことで、松本映画における重大な作品が世に出ることはないかもしれないし、そのことで海外の評価も生まれず、それ以後の映画がつくられないかもしれない。
再度いう、そうなってからでは遅いんだ。奥山の悲劇はもううんざりだ。しかしそれに対して自分に出来ることはなにもない。黙って、旧作が良かったら何度もみて、新作が出来たら劇場に足を運ぶことくらいだ。
ただ今の段階でいえるのは、自分にとって大日本人がそう願ってやまない作品であってほしいことのみである。

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