監督・ばんざい! 雑感【後編】

前回のつづき
そういう目で見たらそんなエレメンツは枚挙に暇がないわけだが、今作はそうした構造面が鑑賞の楽しみに直結しない分、あくまで脇役的なところが逆に効果的で、そうした意味では『TAKESHIS'』以上にメタな映画だったように思う。その点では『TAKESHIS'』より好きかもしれない(その点で『TAKESHIS'』は期待しすぎちゃったかも)。ならばメインであるお笑いではどうかというと、劇場内での笑いは殆どなく退席者もいたほどで、一般的にはベタと目される笑いばかりだったと思う。でもそうでもなかったんじゃないかというのが個人的見解だ。バラエティでも回答ボタンの脇の机叩いたりというネタをよくやるが、太鼓を叩こうと振り上げたバチで自分の頭叩いたり、太鼓の脇叩いたりってお約束は多かった。それでコケる人間がお笑いじゃないってのもあるのだろうが、どうにも間が悪いというかワンテンポずれてる気がした。映画全体のテンポっていうのがあるから、その点を考慮したのかもしれないが、もしかしたらワザとかもしれない。というのもそういうベタをやりつつも、時間をずらして予想外の1ネタをかましてくるあたり、そのフリとしてベタを入れてるんじゃないかと穿ってしまう。江守徹が壇上に上がる際、階段で躓いたりマイクに頭ぶつけるのもお約束だが、間を空けてマイクが倒れるのは実に決まっていた。武はお笑いの人間が映画で本業をやる難しさ、というのをよく言っている。15年以上前ならマイクぶつけるくらいで本気で笑いが取れた。今回お笑いを入れる以上、それでは終わらないシカケる部分はかなり本気だったと思う。マイクにぶつけるとか、日常にあるもの、バラエティ番組のスタジオの中にあるものをいじるようなスタイルってのも自分が作り上げたようなもので、それをやりつつ、裏切る。仕掛ける。特にこのマイクが倒れるの間はハマってて相当しかけたんじゃないかと勝手に分析している。
また本人が時折TVなどで述懐しているように、若手のお笑いを見ては、飛ぶのが早いと言っている。例えば夫婦コントで旦那がただいま~って帰ってきて、食事にするかお風呂にするか聞かれて、ちょっとダジャレ的なギャグを入れたり下ネタ絡めたりして、徐々に普通の夫婦では有り得ないような飛んだボケへとシフトしていく。最初から非日常に飛んじゃうとお客さんがわからなくて世界に入れない、ついて来れないからだが、最近はこの飛びが早いと武はいうのだ。この夫婦コントの例で言えば、旦那がただいま~とドアを開けた瞬間、玄関で服を脱ぎだすとかね。もうこういうコントでは嫁が食事にするかお風呂にするかって聞くのが自明だから旦那は風呂と決めているから脱いじゃう。嫁が早いだろ!?ってツッコンで、もう一度帰ってくるところからやり直すと、今度はほぼ全裸で帰ってくる。これがエスカレートすると玄関で脱ぐシークエンスさえ省略されてくるし、それに対するツッコミもなくなってくる。ツッコミっていうのは、タカ&トシとかになるとポジショニングが変わってくるのだけど、基本ボケを説明するためにツッコんでいる。特にこうした飛びでは重要で、ボケがボケ倒して飛びまくるとお客さんがついて来れなくなるので、ツッコミを入れることで現実的な解釈をいれボケの意味を暗に説明する。
シュールコントの類はこのツッコミがないケースが多く、お約束や定石だとこうだから、こういうボケになるという、そのお約束や定石を分かっていないと分けわからんとなる。だから定石の部分を日常どこにでもあったりダレにでも経験のあることにするってことが多く、逆に日常の何処を切り取るのか、芸人のセンスが問われる。この手のシュールコントを初めにTVレベルでやったのが武じゃないかと個人的には思っている(ちゃんと調べたわけじゃないんで、詳しい方ご教授下さい)。ツービートの頃は漫才に残像現象やフレミング左手の法則といったギャグをいれていて、凡そ日常的でないネタなのだが、通常の漫才の形式に入れるという異化効果という路線だったと思う。タケちゃんマンやらを経て、スタジオでVTRを見るだけのような番組が増える中、ちょっとしたところでコントをやるのを見かけるようになった。なかでも印象的なのが正月特番の爆笑ヒットパレードでのコントで、お能で能楽堂の端から武が歩いてくるというもの。途中つまずいたりとあるんだけど、別のときに武自身が能について「もっと早く歩けよ!」といっていたから、こうした日常のネタから、早く歩けないんだから・・・みたいな感じでコントが作られてるんじゃないかと思った。
とんまつりJAPAN―日本全国とんまな祭りガイド (集英社文庫)しかしこれはまだコケるとかいうわかりやすさはあるのだが、別段ツッコミが入るわけじゃないし、躓いたとしても痛がる顔をちょっとするだけで本人は喋らず黙々とゆっくり歩くというだけだから、当時は相当シュールだったと思う。今でこそみうらじゅんが「とんまつり」だとか「ゆるきゃら」とか、日常にあってでも伝統だからとか行政でやってることだからとか、なんだかわからない理由で高い位置に祭られちゃってるけど、改めてみればオカシイよってことに目を向ける方法論みたいのがだいぶ広まってきているけど、それをお笑いとして黙って黙々とやる武は相当早かったと思う。爆笑ヒットパレードのこのシリーズもエスカレートして、海辺でなまはげみたいな格好をした軍団がかがり火の前で太鼓叩いて舞を踊ってるだけっていう風になってくる。当時これなんか最高に面白くって、未だに鮮烈に憶えているが、現在の伝統芸のポジションとか、ムリから保存している感とか、それを淡々とニュースとしてTV放映してるNHKの感覚のズレみたいなものがバックグラウンドにないと、単にタケシがやってるってだけでは面白くないものになってしまっている。そういえば先の能、『監督・ばんざい!』の劇中劇のホラー映画のタイトルが能楽堂で、怖くもなんともないタイトルだとツッコまれていたが、能とかこの辺がタケシにとっての笑いのコアな部分なんじゃないかと再認識させられた。あ、そうだ、劇中タケシの田舎のシーンで結婚式で「とんまつり」が催され、単に踊ってるだけってシーンがあったっけ。
うわっ、気づけばエライ長いことお笑いについて語っちゃったのでこの辺で。ここからはちょっと気づいたことを。全体的にロケがよかった。井出博士のロケット打ち上げシーンは地方の採掘所のようだが、火薬を使うような特撮ではこうしたロケ地はおキマリなものの、この映画では背後のセメント工場だか採掘所みたいな施設が妙に廃墟趣味してて良かった。それと三丁目の夕日的な劇中映画では全般どこで見つけたのか?セットなのか?ってくらいボロい家があったりして、足立区でも壊滅的だぞって風景がインパクトあった。この昭和30年代映画、単純に1本として見てみたい。北野映画はどれもロケがいいのだが、今回も秀逸だった。そうそう、カンヌ用につくられた3分映画。これも同時公開だったのだが、古びた映画館が壮観で、田舎に佇む風景はCGだろうか、幻想的ですらあった。
ただ、音楽は残念。かつての久石譲の音楽群は、久石音楽はあまり好きでないものの、偶発的にか、好きなものがあったのだが、最近作品ごとに音楽が違っている。今回のはコント番組のホワホワとしたベタベタBGMで、正直萎えた。多分あえてこうしたのだろうけど、チョット行き過ぎな気が。。。
時代もあるだろうが、笑い的にはビートたけしとして監督された『みんな~やってるか』の方が素直だったように思う。そういう意味で今作はお笑いなのかメタなのか、中途半端かもしれないが、お笑いというベースから生まれるメタなもの、その不思議な感覚が映画全体を支配していて、監督の作品の中でもきわめて異様な1本になったんじゃないかと。よかったというより、好きです!ってところかな。
[了]

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監督・ばんざい! 雑感【前編】

北野武「監督・ばんざい!」公式ガイドブック※長らく更新せず申し訳ない。
 久々の本来の映画話だからか、気軽に感想を書くつもりがクソ長くなってしまったので分けます。

●以前のネタ:
 『TAKESHIS'』観る前
 『監督・ばんざい!』観る前


TAKESHIS'どうにも観終った後ある感慨が頭をもたげて仕方なかったのだが、後日たまたま手に取った雑誌にそれを裏付ける北野監督自身の言葉が綴られていた。やはり『監督・ばんざい!』は『TAKESHIS'』の延長線上にあったのだった。
パラパラページを繰っただけできちんと文脈を追って読んだわけではないのだが、どうも『TAKESHIS'』路線を3部作と捉えようとしているようで、もう1本監督するつもりがあるようだ。『監督・ばんざい!』の原題はナンチャラ00/31っていったかな。ナンチャラの部分は忘れたが、00の部分はなんか数字が入っていたと思う。31ってのは監督が好きな素数で、生涯で31本取りたいという気持ちがあるらしい。31本というと半分以上残っている状態だが、『監督・ばんざい!』の中で数本とったようなものだから、あと9本とかいってたかな。この3部作が終わったらそれこそ座頭市2みたいなの気楽に取りたいっていっていたが、それはともかく、今作の原題はフェリーニの81/2のモジリだっていうことからも窺えるように、3部作とあってメタフィクション色が強い。もちろんウルトラバラエティと銘打たれているように、基本お笑いなのだが、『TAKESHIS'』が重い感じに正面切ってメタフィクションやったのに対し、今作はバラエティという体裁で実はメタフィクションだったというつくり。
『TAKESHIS'』のように構造的に見た目に入れ子になっているわけではなく、劇中の北野監督が様々の映画を撮る、その思考過程がナレーションによってフォローされ、ストーリーとしては単に悩みながら様々の映画を撮ってみるというわかりやすさがしっかりと柱になっているので、グチャグチャ感はない・・・はずなのだが、最後にSFを撮ることになるあたりから混沌が始まる。劇中で想定される現実レベルでの北野監督は姿を消し、劇中のSF映画がいきなりメイン、主軸として展開する。これまで現実レベルの武の身代わりであったタケシ人形が劇中劇の中に入り込んでくる。気づくとその中に井出博士のロボット実戦映像やらさらに劇中劇がさり気無いながらも仕込まれており、そもそも監督武とタケシ人形との境界も曖昧になっていき、ラストはこれまでの昭和30年代やらホラーやら様々の劇中劇の舞台が登場して、ドカーンと崩壊する、まさにデウスエクスマキナ状態で幕を閉じる(『TAKESHIS'』と比べれば大団円ってことで)。
今作は都合が悪くなると人形になる武ってのが非常にお茶目に描かれていて、彼自身のシャイなキャラクタと相まってそれだけで楽しめる作品なのだが、殴られたり詰問されたりすると人形=作り物になるという、石になる的なお笑い効果に止まらず、もっと重要な役割があるような気がしてならない。オープニングでCRTやレントゲン検査を人形に施すわけだが、オチとしては医者に「今度本人連れてきてください」という、シュールコントと思いきやただ人間ドック受けたくないから人形を身代わりにさせただけというギャグなのだが、この一連の検査の中で人形に穴が開けられ胃カメラを入れるシーンがある。なかなか間抜けなカットで画的に気に入っているのだが、この映画自体を象徴していると思う。つくられた分身の武の内部を覗く・・・それこそが劇中でつくられる劇中劇を覗くこと、つまりこの映画そのものとなっている。
・・・つづく
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初日には行かない!

監督・ばんざい!』『大日本人』の公開を明後日に控え、メディア露出も盛んな昨今、あんな記事をUPした手前、なんか書いておかなくちゃなぁという衝動にかられた。というのも、あの記事を書いてからというもの、このブログではこれまでにないほどのアクセス数で、なんかこう、無言の圧力のようなものを感じているのだ。
なんかね、ファンだとかいうと、初日並ぶとか、そういう風に思われがちだし、実際のところ、学生の頃はそういうことをしていたわけで。でも映画だから、いつ見ても一緒だしね。どうせ見るなら空いてる時に確実にいい席確保してみたい。1日でも早く見たいという欲求がなかったかといえば嘘になるが、それよりも昔は初日という名のイベントに参加してる感覚が強かった。なんかそういうの、肉体的にというより、精神的に疲れちゃった。そもそも仕事でいけないし、まぁ学生の特権ということで、いいんじゃないでしょうかと。

で、みる前に情報とか入れない性質なのだけど、大日本人はこっちがアクションおこさなくても情報が向こうから入ってくる。それらによると、どうもお笑いみたいね。自分が抱いていた危惧はどうやら杞憂に終わりそうだが、今朝のめざましTVで松本本人が気になる発言をしていた。
TVでコントをつくれないから映画で
といった主旨だったように記憶している。加えて、映画でやる以上、TVのコントとといっしょだと思われないようなつくりにしたとも。
松本のコントやらない発言は、以前の漫才やらない発言と同様、折に触れ耳にしてきたが、現在のTVでのお笑いに求められているものがコントのような作り上げるお笑いではないという危惧に依拠する発言であるとともに、自らがごっつを復活させたときの反応が大きく響いているように思えてならない。あの特番は非常に良く出来たと個人的にはとても楽しませてもらえ、再レギュラー化を予感させるものだったが、数字は10%ほどと泣かず飛ばずで、松本への批判の声が大きかったと本人が述懐していたように思う。なんでアレを否定するのか、まったくもって理不尽極まりない状況だし、自分の周りのアレをみた多くの人間の声とは相反するものだった。受け手の側の声は視聴率という数字でしか現れず、実際の声としては業界内でしか囁かれないものなのだろうか。
もしそうだとするならば、映画界というよりTV業界側からの評価というのが、松本映画が今後多産されるかの鍵を握っている気がしてならない。コントすらつくれない状況にある世界、これはもしかしたらこれまで危惧していた状況より想像を超えた酷い状況が待っているかもしれない。
北野VS松本という構図が作られているようだが、なにをもって勝ち負けとするのか。これまでの北野映画の興業収益パターンから行くと今回は酷評パターンな気がするので、現状では話題性とダレも未見と言う要素で松本に分があると思うが、ここでも実際に5年10年とひとつの映画を嗜好し続ける受け手の評価ではなく、公開して暫くの間だけの興業成績がもっとも力を持ってしまうのだろう。ひとつの映画が好まれ続ける状況というのは、その数字では出てこないのに、大きなお金の動く世界、やはりそこでみるしかないのだろうか。
映画を文化とあげつらう気はないが、1受け手として、自分の嗜好の仕方があまりにも反映されない状況に歯がゆさを覚えてならない。

ともあれ、2作とも見たら、なんか書くんで。

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北京原人 Who are you?

ストックしていた映画レビューをUPをば。
思い起こせば、初日に朝から並んだよなぁ・・・早朝、列が出来ていて、人気だなぁと思ったら、別のアニメかなんかの先行前売りの列で、結局北京原人で並んでたのオレラだけだったなぁ・・・

北京原人 Who are you?多くの人がいうように、丹波映画。ノリノリで絶叫する丹波がみれるのは貴重。役のノリは大霊界の悪ノリ。
それに、何といってもSFなところが偉い。最初のシャトル内の合成も素晴らしいが、BGMに宇宙音が用いられているのが素晴らしい。子供の科学とかでかかりそうな、「ピヨヨヨヨ~ン」という、ピコピコな音。宇宙の科学館みたいな観光地(どこにあるんだ?)でかかってそうな曲。子供の夢を壊さない配慮は素晴らしい。
ポッドが落下して北京原人が島に住みだすシーンの、投げる石の迫力は、CGの可能性を広げる斬新なまでのインパクト。ここで観客びびらせてどうする?
陸上競技で公開を許されていない北京原人を白昼の下にさらそうという誰も考えない方法は圧巻。二代目引田テンコウも登場。佐藤蛾次郎とロシアギャルが2ショットも素晴らしい。宙に浮く象マンモスの技術力も凄い。
そして何といってもラスト。象マンモスに乗って先祖返りする本田博太郎にむかって何の説明もなしに「走れ、もっと走れ」と脈絡なしに絶叫する緒方直人(神田利則ではない)、そしてエンディングのフェイバリット・ブルーが、我々を脱出不可能の迷宮へと誘ってくれる。

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大日本人は監督ばんざい?

気が付けばもうすぐGW。それも過ぎれば1ヶ月で6月がやってくる。
このブログでは映画のことを書いているにも関わらず、年間で映画を殆ど見ない人間なのだが、たまに劇場に足を向けようかと思わせる2作が6/2に同時公開される。北野武の『監督・ばんざい!』と松本人志の『大日本人』だ。
TAKESHIS'みんな~やってるか!『監督・ばんざい!』の方はざっと概要を見るに、『TAKESHIS'』同様『みんな~やってるか』リベンジ的意味合いが濃そう。みてみたら大どんでん返し・・・というのを期待しているが、問題は『大日本人』。
内容に関して全く公表されていないというのが宣伝効果となっているようで、『監督・ばんざい!』の公開日と被ることもあって、第二の北野的な注目をされているフシがある。今回はこのことについて思うところがとても大きいので述べさせていただく。

まず、『大日本人』は松本人志第1回監督作品となっているが、第1回監督作品は『頭頭』ではないのか(後日談:監督は山口将哉なのでクレジット上第1回監督作品で間違いはない)。もしかしたら北野式に『頭頭』リベンジかとも思ったが、いまのところそういった兆候がみられない。
まぁそれは個人的関心としてどうでもいいことで、仮に、松本が第二の北野になるべき作品を作り上げたとして、果たしてそれをダレが、引いては何人の映画関係者が第二の北野的作品と認知できるだろうか。
ソナチネご存知の通り、北野映画の評価とは逆輸入であって、日本人が自国で評価したわけではない。今となっては代表作とされ北野映画ベスト1にあげる輩も少なくない『ソナチネ』だが、公開当時評価していたのは淀川長治以外に記憶していない。
もちろん、リアルタイムではなく後追いでビデオを見るなりして感じ入った者や、公開当時は発言力のなかった映画関係者もいることだろう。そうだったとしても、ここまで多くの人間が評価する映画なら、公開当時もうちょっとなんとかならなかったのだろうか。
REX 恐竜物語 初回限定生産エディションそれくらい、公開当時の状況は悲惨だった。殆どインターネットの普及してなかった時代、北野ファンクラブと新聞の劇場情報から公開情報を得、歌舞伎町の劇場へ向かった。そこは同じ名前で1・2・3とハコ分かれている劇場で、名の通った映画館だからさぞ広い劇場かと思ったら、1から3だか4のハコに変更になったとの掲示があり、入ってみると異様に天井の低い、百人も入ればいっぱいなくらいのキャパだった。初日か翌日だったと記憶している。こんな空間で上映されるのかという驚きと、この空間に1000円ほどの値段を払う腹立たしさったらなかったが、余計に神経を逆撫でさせたのは、安達祐美が歌う『REX恐竜物語』の主題歌が休憩時間中エンドレスで流れていることだった。
その男、凶暴につきREXの製作はソナチネ同様、奥山和由であることから、ソナチネという映画の内容からは想像だにできない異様な劇場空間が生まれたといえば納得がいくかもしれない。奥山は『その男…』で北野を監督に大抜擢し、ソナチネに至るまで北野映画をつくり続けられるよう屋台骨になってきた人物といって過言ではないだろう。
というのは、興業的に振るわない映画を4本もつくれたというのはまず常識では考えられない。しかも淀長以外に公に評価する人間がいない状況で、4本つくれたというのは奥山の人力なくしては成し得なかっただろう。故に松竹本社からの突き上げが強く、遂にソナチネを以て北野との関係が途切れる。
HANA-BI奥山という存在があったからこそ、あのソナチネが存在し得、その後の『HANA-BI』にも繋がったのだが、当時奥山は映画監督として竹中直人を見出す他、カンヌで賞を取った今村昌平の『うなぎ』も手がけているが興行成績に結びつかず、94年の『RAMPO』では監督として招聘した黛りんたろうと衝突し自らか監督した2ヴァージョンで劇場公開され話題を呼び興行的にも成功を収めたがそのやり口がさらに傷口を広げ、98年に松竹を解雇されている。ちなみにソナチネの公開は93年。
北野映画はというと、ソナチネ以後テアトル系の単館ベースの公開となり、この時期に『みんな~やってるか』が公開されている。

奥山は解雇後チームオクヤマを結成し、『地雷を踏んだらサヨウナラ』『TAIZO』『IZO』など話題作・ヒット作を生んでいるので結果オーライには見えるが、日本初の映画投資ファンドFFEは3作目途中に解任劇により反故になってしまっている。北野映画もHANA-BIでは配給にヘラルドが付いてロードショー公開されたが、そこまでの道のりには悲惨そのものであり、北野作品がここまで評価されているにも関わらず、その根幹を担った奥山には現状を以てしてもあまりにも報われていないと思うのは自分だけだろうか。
自分が懸念しているのは、極個人的な感想として松本の映画が衝撃的だったとして、そう思った映画関係者が素直に表に出せる状況であり、仮に興行的に振るわなかったとしても、映画を成立させるために尽力した人間を評価し、引き続き映画をつくらせるだけの土壌が今の日本映画界にあるのだろうか。大日本人がどういう人間が関わっていて、今後松本映画がどうなっていくかなんてわからない。ただ、現状というのは、ソナチネの頃と何ら変わっていないと思う。大日本人を海外の映画祭に持っていくという話ももう出来上がっているそうだが、そうでもしないと評価できないというのが現実だろう。後々、松本映画が数作を経て海外で評価されたとして、その時既に初期段階より尽力された人間が干されていた・・・なんてことが容易に想像できる。そうなってからでは遅いのだ。北野作品ではソナチネは生まれたが、もしかしたら、その人間が干されたことで、松本映画における重大な作品が世に出ることはないかもしれないし、そのことで海外の評価も生まれず、それ以後の映画がつくられないかもしれない。
再度いう、そうなってからでは遅いんだ。奥山の悲劇はもううんざりだ。しかしそれに対して自分に出来ることはなにもない。黙って、旧作が良かったら何度もみて、新作が出来たら劇場に足を運ぶことくらいだ。
ただ今の段階でいえるのは、自分にとって大日本人がそう願ってやまない作品であってほしいことのみである。

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『代打教師 秋葉真剣です』

代打教師 秋葉、真剣です!久々に映画レポをば。
※これまた久々にlivedoorムービー“映画を語ろう”にUP!


いまは亡き(をゐをゐ)吉田栄作大先生の作品。
キャスティングで狙ったのか、栄作だからこうなったのかはわからないが、とにかく栄作映画としか言いようがない仕上がりで、常にうぉーーーーーーーって叫んでいる。ホントにそればっかの映画。

栄作は荒廃した学校を建て直す代打教師という役。栄作は進学校の、山本太郎率いる落ちこぼれクラスに赴任。彼らを更正させるために、白竜率いるヤクザと闘う。
どうにかヤクザと山本太郎一派を引きはなそうと、栄作は火だるまになって絶叫したり、溶かした鉛に指を突っ込んだりする。恋愛パートもあり、鷲尾いさこと海に飛び込む。
ある日、ヤクザ側にボコボコにされた栄作は、鷲尾に止められるものの、「ウルセー!」とまたバイクでひとっ飛び。傷だらけで教壇に立とうとするその姿にうたれた山本太郎は仕返しをすべく、栄作の奨めでラグビーでカタを付けること。相手はヤクザの息のかかった、ラグビー部エリート学生軍団。さて、勝敗や如何に!?

校長に中尾彬、教師の一人にデーブ・スペクターと、豪華キャスティング。実際のヤンキーもLLブラザーズも出演。

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『卓球温泉』~あの日の映画館

久々のUPは以前書いた映画のコラムが出てきたので載せてみます~
※これまた久々にlivedoorムービー“映画を語ろう”にUPしました。


最近映画館に行ってないんだけど、無性に映画館に行きたくなった。そんな映画。
特別どうというところもなく、まあ、多くの人はわざわざ見る必要を感じな い、よくある日本映画だけど、なんか熱い。

題材が卓球と温泉という単純且つ渋いセレクトで、確かに個人的に琴線を震えさせるものではあるのだけど、カメラ ワーク、配役、役者回し、そこら辺が廃校舎という背景と相まって、古くさい映像空間が出来上がっている。
スチール臭いというのかな、妙にクサいBGMとは 違う、意図とちょっと外れた部分で、映画そのものの郷愁が出ちゃっている。コ汚い映画館にふと行きたくなる瞬間。映画じゃなきゃダメっていう、そういう感 じ。
じゃあ、この映画を映画館で見ればよかったかっていうと、それはちがくて、その起爆剤になったって事。次週は「ザ・ロック」をやるそうだけど、これに はそういう映画臭さはないのね、当然だけど、別もんだから。
これは邦画って部分が結果として強いんだけど、邦画に限った話じゃなくて、タルコフキー(ノス タルジアとかアンドレイ・ルブリョフかな)とか、トリュフォーとか、ケン・ラッセルとか(脈絡ねーな)、ああいうのにもある。あと、ATGはそう。モロそ う。ACTシアター系の映画館に足を運ぶ感覚。
そっちの映画のはしごした映画青年なら共通感覚としてあると思うんだけど。必死に映画見るっていうか、雰囲 気に酔ってるというか。これは、いまさら80年代の歌謡曲、斉藤由貴とか中山美穂とか聴いて、妙に切なくなってしまう感じかな(これについては別項に記載あり)。そういうわけで、映画館に 行きたい!

【初出:1999年6月19日】

●舞台になった温泉田沢温泉 ますや旅館、なかなか鄙びたいい旅館♪

Music 卓球温泉

アーティスト:サントラ
販売元:徳間ジャパンコミュニケーションズ
発売日:1998/04/22
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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映画『太陽』雑感~後編

前回の続き


ヒロヒトの3日間を描くというとドキュメンタリータッチの印象を受けると思うが、先述したように内面的心情が吐露されたり他者の発語、あるいはナレーションなどの言葉によって補完されることはなく、状況、というより風景が切り取られているに過ぎない。
とはいえ、劇中全てがこれで覆われているわけではない。観た方には非常に印象的なシーンだったと思うが、とてもイマジナリーなヒロヒトのみる夢のシーンがある。東京大空襲と思しき、魚と化した爆撃機から焼夷弾が投下される光景が、炎揺らめく水の中からの右往左往する視点で描かれる。夢から醒めたのは午睡の後か、はたまた翌朝か、例の如く説明は一切ないのだが、まぁ常套に考えて夢の中の視点の主観は水の中の生物ということで考えるとナマズだろう。自分は最初、その揺らめく水面を水中から描かれる光景を見て、皇居の堀の中かなぁと思った。次第に空襲が激しくなり、夢だけに視点がダイナミックに切り替わり一種のジェットコースター的な激しさを増してきて、ちょっと様子が違うぞとは思ったが、ここがどこかとかそんなことはどうでもいいほど、これまでの映画のトーンとは異なり、非常に動的なシーンに仕上がっていた。
動きばかりではない。色彩もゴールドのような黄色いベースの色合いという点ではこれまでと大差ないが、黒が強いのだ。コントラストがきついというか。CG処理されているせいだと思うが、この夢のシーンとは別にも、マッカーサーに会いに連行されるシーンでの皇居外の廃墟が描かれている部分は、ガレキがやはり少々コントラストきつく映える。
これに違和を憶えても不思議ではないだろうが、自分はヒロヒトの日常的なる光景と、ヒロヒトにとって非日常的、つまり多くの国民(東京人)にとっての日常との差異という描き分けとして、逆に効果的だったんじゃないかなぁと思った。


もうひとつ、大きく印象的に演出されたシーンではないのだが、ラスト近くでヒロヒトが西洋の(だよね?)ドローイングを眺めるシーンがある。日常の1コマ的に描かれる時は大人が苦もなく両手で広げられる程の大きさの絵なのだが、カットが変わりヒロヒトの頭越しの画(おおまかにいえば主観ショットだろう)に変わると、図版の大きな絵に変わっていて、両手に広げて持つのもいっぱいいっぱいな程になっている。
こういうカットによる縮尺の違いなんて多く映画にはあるだろう。それを感じさせないように手が施されるのがフツーだが、ここでは明らかに故意に演出されている。まるでこどもが大きな世界地図でも広げて、熱心に見入るようである。そう、この映画ではヒロヒトを暫しこどものようだと表現させている。時に用地ですらある側面を誇張して描くことで人間ヒロヒトを演出しているのは一目瞭然で、その人間らしさを、子供っぽさに求めたり(あまつさえセリとしてマッカーサーなどに言わしめたり)、例えば桃井かおりに抱きつくシーンなど、あまりにベタな描き方に若干自分は辟易する部分はなかったわけではないが、そんな言動よりも、画を見入るヒロヒト、そのパースペクティヴという1カットで全てを現しているような気がしてならない。どんなセリフや演技よりも、グッとくる瞬間だった。


縮尺を変えてみせるファンタジー・・・この映画は史実を描くものではなくフィクションであり、ドキュメンタリーではなくアートであるのだろう。その意味で、映画としてイマジネーションを刺激させられる非常に楽しい2時間であった。


【了】


予断になるが、イッセー尾形は好演だったと思うが、どうにもヒロヒトというよりマギー司郎に見えて仕方ない瞬間があった。じゃあマギー司郎が演ればよかったのかというと、それは当然別問題で、演技ってのとは違ってくる。でも、映画の話とは離れるが、時折マギー司郎に哀愁を感じるときがある。マギー司郎の素顔に迫る的な番組を何度かみたことがあるが、若い頃のビンボー時代に食べたカツサンドかなにかをその店のカウンターで頬張る時の背中・・・東京に出たての頃に澄んだ下宿の跡地に佇む姿・・・マギー審司の活躍を喜びながらも、どこか寂しいあの、丸眼鏡の奥の瞳。その瞬間に、ある一定の年齢に達すると感じる、やるせなくも行き場のない漠とした哀愁は、イッセー尾形演じたヒロヒトに相通ずるものをみた気がしてならない。


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映画『太陽』雑感~前編

昭和天皇ヒロヒトの人間宣言へと至る3日間をイッセー尾形が演じロシア人監督が映画化するというだけで話題性は十分なのだが、映画の情報を積極的に摂取しなくなって久しい身には、ソクーロフ の新作上映という情報が簡単に舞い込んできたことが単純に嬉しかったりする。
内容的に日本国内での上映が難しいといわれていたようで、そんな中なんとか単館での上映に漕ぎ着けたのだそうだが、センセーショナルな部分での反響だろう、高齢層の観客で映画館は満杯になったという。だからソクーロフがどうこうということは関係のない動きなわけで、のんびりソクーロフの映画がみれると高を括っていたところにこの騒動。おまけに上映館は銀座シネパトスと来ている。地下鉄の騒音と屎尿の臭いで有名なステキ映画館。鑑賞された方のレビューとみると、案の定劣悪な環境への不平不満で満ち満ちていた。ご愁傷様です。
このような状況で他所も黙っていようもなく、続々と上映館が増えていく。その中にチネチッタ川崎があった。銀座を除いた他の映画館よりは近いし、行ったことないし、設備も整っていてキレイだって言うし、京急に乗れるし(結局それか)、ということで、観て来やした。


わざわざ川崎まで、しかもネットで席予約して行って大正解! ちと空調が効き過ぎかなってくらいで、スクリーンも大きく実に快適。映像自体が見ごたえがあるので、これくらいの環境がちょうどいい。
映画の大筋の感想自体は、パンフレットにあった田原総一郎のインタビューと大差ない。つーか、逆によくコンパクトにみどころまとめちゃったなぁという、ある意味パンフレットとして失格なほど的確な文章だった。内容については触れなくもないが、ここは敢えてソクーロフの映画を観たってことを書きたい。

なんてこれまで書いておきながら、ソクーロフの映画は2本目。しかもビデオで『ストーン』。ビデオではそんなに気づかなかったけど、今回初めてスクリーンで見て(だから劇場でみたかったのよ)、その映像の細かいディティールの再現はビデオでは潰れてしまうほど、繊細で中間的な色彩・コントラストであることをここまで認識したことが今までなかった。
ビデオにしろDVDにしろ、映像の持つ雰囲気は伝わっても、映っているもののテクスチャーみたいなもんまで再現することって実はまだ出来ていないんじゃなかろうかと。フィルムで撮ったのかDVなのか知らないけど、そのフィルム的質感は官能的と思えるほど、青を基調とした(場面によって基調となる色が変わる)淡い世界。細かな文様の入り組む伝統的織物のようなコンクリートの複雑な質感が、ヒロヒトの潜む地下壕という空間が、飽く迄豪華ながら、Xデーが迫っている暗澹とした空気を伝え、と同時に逆行するかのように、進退窮まる状況そのものの敗者のカタルシスとも言うべき負の美麗さが同居している。これらは言葉として説明されるのではなく、1カットの画として感得し得るものであるということが大きい。この映画はいわゆる説明というものが殆どない。主人公がヒロヒトであることは侍従らが発する現人神という言葉で説明されるも、もし現人神という言葉を知らなければ、彼がヒロヒトであるということすらわからないだろう。
なんで映画には映像がついているのか。おかしな問いだが、こんな当たり前のことを疑問視してしまうほど、映像は言葉によって補完されすぎている。言葉は別のイマジネーションを刺激する、映像とは同時にあって別次元のものであるからこそ、映像と共に発せられるんじゃないかなぁと思うのだが。。。


つづく

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『アヴァロン』雑感

【初出:2001年1月20日】
久々の押井、というか、このところ見たい映画がラッシュで、既に去年に劇場で観た映画の本数に並んでいるという近年稀に見るエライ状況で、文化に触れられてウハウハなのである。なんだか久々に古巣に帰ってきたようで、そのなかに押井が入っているというのがなんとも嬉しいじゃありませんか。
で、今回のアヴァロンですが、前作の攻殻からどうも最先端SFXのトンがった(今日日いわないか)ハリウッドも注目の的、みたいな扱われ方で(宣伝文句もハリウッドでは出来ない映像…みたいな言われ方だしね)、正直、敢えて押井守を巡るムーヴメントから距離を置いていた。その間、過去の作品を見返していたりはしたけど、どうも公開以外のイベントに行ったりのオッカケは憚られたのだ。
でも、注目されることは悪いことじゃないし、どんな文句であれ、ああいう映画が多くの人の目に触れられる機会が増えるということはいいんじゃないかな、なんて無責任かつ好意的に思ってもいた。その中のひとりでも、「こりゃ、いい意味でとんでもないものみちまったな」と思えればいいわけで…。

しかし、商売的な売りって、そういう宣伝文句しかないんだよね。有名アイドルが出てるわけでも美少女アニメでもないし。案の定、人狼の喧騒は何処へ…という客入りだったけど。でもなんで人狼あんなに集客あったんだろう?? でもやっぱり前情報を極力いれない主義としては、アヴァロン、押井映画として楽しめるのかな、という不安は相当あった。まあ、こう思う時点でメディアにおどらされているんだけど。

結果から言えば、見事にその不安は玉砕されました。よかったよかった。と、手放しで称賛できるほど、大絶賛!という気分には、観賞直後、なれなかったのも事実。「お前が心配するなよ」という余計な心配を抱えることになろうとは。それは、「こんなもん全国ロードショーすんのかよ!!?」である。

俺=世間じゃないし、凹凸があるから始めて平均があるんであって、自分を一般だとはおもっていないけれど、でも、にしても、これ、世間的に[楽しい]という要素がないよ。ボクに言わせれば、以上の文脈では、はっきり言って「落ちてない」。


これまでの押井作品でも、一応、世界が収束するというか、真偽は兎も角、可能性としてのある世界の一応の終幕は見せているわけだ。北野映画だって、見せてはないけど、銃声は聞こえるわけだ。つまりはそういうことだ。

映画の快楽というものを映画であることだけにどれだけ見出せるか。トレーニングとかいいたくないけども、でもそういうものを積んでいないと、「なんじゃこりゃー」状態なわけで、「結局あの悪党は死んだの?」みたいな話すら出来ない。ここまでやってくれると痛快なはずなんだけど、自分としても正直戸惑った。始めに述べたように、こういった事態以前の、実にくだらないことに不安を抱えていたのだから。

そんな一般鑑賞者へしょうもない不安を抱くというのも、先日、興味深くも実にくだらない話を聞いたからにほかならない。知人の母親が映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」にいって、実に憤慨して帰ってきたというのだ。泣ける映画らしいし、ボク個人的にも泣けるという文脈ではなく興味を持っているのだが、それはともかく普通の主婦が観て憤慨するとはどういうことかと尋ねてみると、どうもラストがハッピーエンドじゃなかったこと、それに尽きるらしい。

ハッピーか否かの是非は兎も角、新春早々、ブルーにさせるな、ということらしいのだ。これにはあきれるというか、言葉を失ったが、ともかく映画を観るという行為は少なからずの人々にとってそういうものであるらしいし、映画を観てよかった、つまり観賞料金にみあうものであり、そうでないものはつまりは金返せ!であるらしい。この話を聞いて、何も言えないというのはまさにこのことなんだろうな、なんて冷静に思ってしまった。

こんなことがあった矢先だから、アヴァロンが全国ロードショウという事実が恐ろしいのだ。


で、お前は結局どうだったのか、といえば、実はこうして文章をうっている今の方が、感動している。久々に後から来る映画で、朝早かったものだから昼寝をしたのだが、夢に出てきた。自分がゲームに参加しているとかそういうチープな夢(夢とは概ねチープなものだが)ではなくて、映画のカットが次々と、そして延々と、それこそ走馬灯のように脳裏を駆け巡るのだ。善か悪かという話はしたくないが、いうなれば悪夢のようなものだった。全体で観て、演出的な見せ場、全体の文脈からのダイナミズムは正直なかった。だから観て直ぐの感動はなかったように思われる。たまごを割るとか、サブコントロールに鳩がいっぱいとか、少女の街とか、だから遅すぎたといっているんだ、などなど。

でも、でも、これは残る。CGでどうのとか、軍が協力してどうのなど、そういった映像のことではなくて、映画の画(らくごのごみたい)としての、負のパワーとでもいうのかな、メチャメチャ間接的に、背中から迫ってくるようなイメージの連続(=映画)である。非常に稀有で、久々に味わう、映画の特権であるだろう恐ろしくも求めずにいられないものがあった。こういうものが最もリピート率が高い気がする。

これは付合いが永くなりそうだ。この映画と自分の関係、その今後が楽しみだ。


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『学校3』~山田洋次のリアリズム

「山田洋次をなめてはいけない」とよくいうのだけど、イマイチ誰も親身に聞いてくれない。 学校3、これが本当に凄い。これほどハードな映画、「エルトポ」以来だ。本当にいいことがない。ここまでいいことがないと、文部省推薦とか、親が子供にいい映画としてみせるとか、社会的にいいイメージを持つ健全映画を超越している。ある意味世界残酷物語。 思うに、これは山田洋次が持つ演出力、リアリズムにあるんじゃないかと。

例えば、感動的な作品、ハウス名作劇場系、「フランダースの犬」とか、ああいうのでよく泣けるって話聞くけど、あれは、アニメっていうことのほかに、外国という設定に負うところが大きい。つまり、暖炉の前でチーズ食ったりとか、我々の茶の間とは隔絶した、リアルじゃない設定が、かわいそうとか、哀れだとか、そういった感情を他人事として、モニターの向こうに追いやるからこそ、あっけらかんとお茶でも飲みながら泣くことが出来る。おしんとかも、あの手のNHKモノっていうのも、奉貢とか戦争とか、過去の思い出として美化された、いまでは体験できないからこそ、無責任になれるのね。だからNHKは現代物の数字とれないっていわれると思うんだけど。あれが団地の隣の家の話だったら、本当ブラックだよ。それが学校3。

過去の学校1・2にはない、笑いの少ない暗い作品。零細企業の事務をリストラされた大竹しのぶと、大企業でリストラされた小林稔侍。障害を持つ黒田勇樹。冒頭で以上が判明するが、ここまででもうブルーになる。カリカチュアライズする道化がいない。邦衛もいて、そういう役は専らケーシー高峰(カマ!)が請け負っていて、いい味だしてるんだけど、西田敏行のようにはいってない。山田洋次作品における西田の重要性というのをこのときばかり思い知らされたことはない。高木ブーとでも出てきて、ハワイアンでもやれば大分後味のいい作品になるんだろうけど(釣りバカ9ね)。

それにしても黒田が効いている。本当にリアル。山田洋次に障害児撮らせたら右に出るものはないかと。それは「バカが戦車でやってくる」の頃からあって、阿呆役の犬塚弘は、クレイジーの犬塚であることを忘れて、モノホンなんじゃないかと思ってしまうほど。前作学校2も圧巻で、山田洋次作品には欠かせない吉岡くんもリアル。ブラックの極み。

それらを助長するのがロケーションで、町の持っている気というか、そういうものがマッチングしている。今回は江東区の技術学校が舞台で、大竹しのぶの団地は赤羽方面。亀戸の駅も出てくる。もう隙がない。ベストロケーション。こういう設定の映画なら、どういうロケーションがマッチしていて(土地の属性)、どういうふうにランドマークを入れ込むか。何故映画はロケーションするのか、ということに言及できていれば自ずとわかることだけど、今の映画の多くはこのことすらわかってない(「アンドロメディア」はロケが本当に酷い)。

演出、ロケもさることながら、状況設定も見事。2ではスーパーモンキーズのライブに気球と、気の毒に思う状況が満載。3ではやはり熟年カップルの恋愛劇だろう。職を失ったものが職安で紹介されて職業訓練校に通う。半年の勉強の後、資格を取って就職。というなかで、稔侍としのぶが大人の恋に走るのだけど、団地で二人抱きあうしね。で、その間、黒田は事故るし、結局、稔侍は別居してる奥さん(秋野暢子)の自殺未遂でその奥さんにつきそって、しのぶとはわかれるんだけど、そしたらしのぶ、乳ガンでしょ。シャレになってない。

感心するのが、時間の処理のうまさで、半年という設定上の時間を、2時間強で、それもいいシーンを選びつつ、描写も甘くなってはいけない。ここら辺の処理が本当に上手い。日本映画きっちりやってきた人って、こういう技が本当に見事。気付いたら2ヶ月経っていたなんてことがざらだけど、見てる側は納得して時間を追えるし、映画の進行スピードに置いていかれることもない。それでいて、しのぶと稔侍の感情の流れもしっかり描かれている。脇役もフォローされている。自分にはできない芸当(しなくてすむ方法とってるけどさ)。こういうもの、今忘れられてるから、しっかり見て勉強して欲しい。


最後に、山田洋次演出のボケの演技も健在で、劇中、本当に良くコケる。黒田の新聞配達(!)中の自転車コケも見事。稔侍もコケるし、しのぶもコケる。稔侍コケたら皆コケた。

【初出:1999年9月10日】

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未だ観ぬ『TAKESHIS'』へ

やっぱり!という言葉とともに、本当に実現したんだという感慨でいっぱいな今日この頃。皆様いかがお過ごしでしょうか?
『フラクタル』完成まで生きていて良かった。
鑑賞後もそう思えると嬉しいのだが、まぁ10中89の残り10~20%期待せずに気持ちを乗せて、平常心を保ちつつ劇場へ向かおうかと。


実際は『フラクタル』ではなく『TAKESHIS'』とタイトルを変えたわけだが、キタニストには待望の映画化で、その構想はもう10年も前の話となる。ご存じない方にザックリ流れを説明すると、タケシがバイク事故を起し、復帰後第一弾の映画監督作品として、後に『キッズリターン』となる案と、『フラクタル』という2案が上がったのだが、森社長が映画監督としての今後を考えて、エンタテイメント性の高いキッズの案を選んだという。
この段階で、キッズとHANA-BIとフラクタルの3案がタケシの中にはあり、キッズの後、あのHANA-BIが完成となった。HANA-BIの上映を前に関連書籍が多く発売されたが、その殆どでタケシはこの話を吐露していることからもわかるように、相当にこだわっていた企画のようで、座頭市の興業的成功でご褒美に好きな映画撮れる状況が出来て、10年の時を経てやっと実現するに至ったという、なんだか押井守がバンダイにパトレイバー2つくるご褒美にトーキングヘッド(原題が『ゲーデルの首』だったのも因果な暗号めいているな)をつくらせてもらった経緯を髣髴とさせる。


で、なんでご褒美でないとつくれなかったのかというと、「現実だと思っていたら、夢から覚めて、さっきまで現実だと思っていたのは夢だったんだと思ったが、いま目覚めて現実だと認識している現在も、また目覚めれば夢なのかもしれない」みたいな内容だと確かタケシ自身が語っているのを耳にして、それでは監督復帰しても復帰作として今後監督を続けていけない、つまりは本当の復帰とはならないと判断した森社長に対して、自分がこれまで北野映画に見出していたものが幻ではなかったと証明できる瞬間だったのにっ!と恨めしく思ったものだ。このことは北野映画を観たことがない知人に、何で自分が北野映画すきなのかを理解してもらえない状況を遅延させいたし、その知人が北野映画を観ても、なんで自分が熱を入れているのか理解してもらえない状況をも生んでいた。尤も、映画なんて観た当人が楽しめればいい訳で、客観的に個人的嗜好を理解してもらう必要はないのだけど。


蛇足だが、学生時代、ある年配の講師に「北野映画見たことある人?」といわれ手を上げたら、その理由を述べなければならないという拷問のような時間がやってきて、映画内映画のことを渋々述べたら、頭に思いっきり???が浮かんでいたのを思い出した。あの講師、TAKESHIS'で自分の発言の意図をやっと理解・・・してないな。自分という存在も忘れてんだろう。そういうもんでしょ。


閑話休題。森社長の判断だが、今にして思えば正しかったと思う。当時もしフラクタルが実現していたとしたら、TAKESHIS'とは違ったものになったろうし、ベネチアで金獅子取る前だから、予算もない状況で思い通りのものをつくれなかったろうし、撮影途中で打ち切り、完成できても配給決まらずお蔵入り、そしてタケシは以後映画が撮れず、なんて状況になっても全くおかしくない状況だった。だってキッズが単館で相当話題になって、その流れの上にHANA-BIがあるんだろうし(ソナチネがいくら海外で話題になっても一部の話しだし、それでは日本でお金は動かないでしょ)、ソナチネで実質、奥山P首切り状態だったわけだから。

で、企画内容に興奮したのは上記の通りだが、フラクタルというタイトルにも、当時そこに来たか!と相当に興奮したものだ。その興奮するほどの“フラクタル”とはそもそもなんぞや?という話をば。数学は興味あるけど苦手なんで、突っ込んだ話をするとボロが出るので詳しくはそれなりのサイトを参照ください。それではあまりにもなので、ザックリ間違いだらけで説明させていただくと、相似とかなんとかっつって、ある図形があって、その一部を拡大していって、さらに拡大していって、さらにさらにさらに拡大し続けていくと、もとの図形が出てくる、というもの。マンデルブロート集合とかコッホ曲線なんてのがあって、特にコッホ曲線は簡単な関数で表現できるようで、ネット上でもフリーウエアが出回っているし、スクリーンセーバーもあるので、興味ある方は是非その目で。この手のプログラムはパソコンではウインドーズ以前からあって(FM-TOWNSで流行った気が)、数式を反復するというコンピュータが主役の世代の数学の賜物の様。
フラクタル理論は、なんで0で割り切れないかの証明とか、卑近な例ではリアス式海岸を表現するのに用いられたりして、カオス理論として非常にセンセーショナルに迎えられた。ちょうどファジーとか流行ったころの話。


マンデルブロート集合などの図形と、胡蝶の夢的な夢から醒めた夢、みたいな構造が被って、虚構である映画と現実の対比が映画の企画として出来上がったんじゃないかという想像は難くないが、自分の中でタケシがこういう映画をつくるって確信をもったのは、これまでの映画にその萌芽をみただけではない。その萌芽を確信として受け止めるに至る要素が他にあったのだ。
あるとき、平成教育委員会を見ていたら、タケシがギャグとして、問題の答えか何かで「○○出る」??みたいな言葉に対して、「げー出る(ゲーデル)・エッシャー・バッハ」といったのだ。ゴールデンのバラエティ番組でダレがこの言葉を聞くと確信できただろうか? この瞬間茶の間でぶっ倒れたのはいうまでもない。
なんでカットされなかったのか不思議だが(生放送のときなんてあったかな?)、これはダグラス・R・ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』という本から来ているネタ。いうなればこれまで話してきた構造のような思想による数学の書籍で、当時現代思想の引き合いによく出された。柄谷行人の『内省と遡行』(だったか『探求』だったか)にも出てきて、自己言及とか脱構築とかの文脈で目にした。ゲーデルの理論をエッシャーの騙し絵やバッハの音楽に見出すという内容なのだが、先に押井守を引き合いに出したのは実はこの布石だったりする。


それはともかく、タケシの中に自己言及的な懐疑がある、という容疑があったわけで、それでこれまでの北野映画をみれば、TAKESHIS'の出現は十二分に予測できたというわけ。
さぁここまで盛り上がったのだ。期待するなというのが無理な話である。あの確信から10年、この先はTAKESHIS'を観てからとしよう。

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ついに行ってきた『オペレッタ狸御殿』

狸御殿としては今作で7代目となるらしい。まぁその辺のことはオフィシャルサイトとか他の方も述べてると思うのでスルー。
ともあれ、前情報は入れない主義なので、オペレッタとついてることと、清順映画であることの2点である程度は覚悟は出来ていたはずだが。。。なのに「なんじゃこりゃ~」になってしまうのが、清順マジックとでも申しましょうか。歌と踊りだけでどう楽しめばいいのか、始めは取っ掛かりが全くつかめない。腹を決めていたはずの、時系列でないカット割やらストーリー運びは影を潜め、昔話のような単純なストーリーが行儀よく順序だてて進行していく。逆に予想を裏切られたというか、こう来られると見所のきっかけがないではないか!?
しかし物語の一定テンポのスムーズな展開に水をさすように、突然挿入歌が歌われる(敵と見方だったのに突然一緒にダンスしちゃったりするような)映画は基本的に大好きなのだ。どんなに退屈な映画でも歌と踊りがあると許せてしまう(例『ブルー○ルベット』)。そんな思いから、隙あらば歌って踊る、そのシーンを単純に楽しもうと決めた。始めはオダギリジョーとチャン・ツィーの惚れたはれたの歌ばかりだが、薬師丸ひろ子の局の歌あたりから、自分の決意はあってたかなぁと思い始め、ついに由紀さおり扮する、びるぜん婆の歌で決定的なものになった。
いや、この歌がスゴイ。由紀さおりは姉妹で童謡歌ってるだけのオバチャンじゃないのだ。この歌だけのために映画を観てもいいくらい。パワフルに際限なくバカバカしいことをやってのける。
そう、はっきりいってしまえばバカ映画。語弊があるが、ともかく全てがバカバカしい。どんな病も治す泣き声を持つ蛙が出てくるのだが、その泣き声たるやバカバカしさの最たるもん。デジタルで復活した美空ひばりも、よく加藤和也がOKしたな、というかひばり事務所的に大丈夫なのかと思うくらい危うい。まじめな一般のひばりファンは怒るだろうなぁ。。。なんて思いながら観ていたら、途中退場する年配カップルが。
話というかなんというか、そんなノリのまま、大団円で終了。実に実りのない2時間弱。
こんな表現をすると駄作のように聞こえるが、映画って実りがないといけないのだろうか? いわゆる感動作品なんかでも、人間性だとかメッセージ性だとかそういう訴えかけるもんみたいのがとても有難がられているようだ。確かにそういう考えさせられるってのもエンターテイメントだと思う。公式サイトのインタビューで清順監督がいっていたことでもあるのだけど、確かにそうだなと。じゃなければ先に述べた、退屈な映画でも歌と踊りがあると許せてしまう、なんてことはありえないから。
言われてみれば、実りのない映画で好きなものって過去にいっぱいあった。有名どころでは、ドリフの映画とか、無責任シリーズとか。ツボの部分では不良番長なんか実に内容がない。男はつらいよもそう。男はつらいよは、なんか泣ける。全然シリアスな、いわゆる今日の感動的な泣けるタイプとは異質の泣き。ホロっとくるというか。こういうバカバカしい泣きって意味なくていい。韓国のドラマや映画みたいな事故なんて、そうそう無い。こういうそこはかとない泣きこそ、なんかこう、身体の隙間にピッタリくる。この狸御殿でも、ぜんぜん悪く見えない平幹二郎が親で仕立てる人間燭台ってのが出てくるが、下手な差別的内容のリアルな悪より、なんだか重く思えてしまう。
歌や踊り、オペレッタという舞台性、そういった全くリアリティとは相反するところで、徹底的に虚構、嘘っぱちをやることで、間隙をつくように、漠とした何かがズシンとくる。昔、松本人志がなにかのインタビューで、本当のことのように見せて嘘をつくテレビ(恐らくドキュメンタリー番組の類だと思われる)よりも、嘘を重ねることで垣間見れるものがあるTVの方が好きだ、みたいなことをいっていたが、まぁ好き嫌いはあるにせよ、映画という嘘っぱちの世界では、嘘で重ねるつくり方の方が、やっぱり観ていて興味深いなぁと思う。そういうものの方が、10年20年経っても観たいと思わせてくれるし。
話は清順から離れて申し訳ないが、結局押井守の映画もそうだと思う。もっともらしい衒学的な薀蓄を並べて、さも真実を語っているようにみえて、ただ観客を当惑させたいだけ、という見解が強いようだ。でも、学術的と目されがちな言説に対して、そういったものが真実をつくような映画内の意味を示唆している、というのが前提にあって決め付けているだけなんじゃないだろうか。テレビの報道バラエティでもすぐ大学の教授に意見を求め、それが正しいような演出をするけども、そういう権威主義みたいな目を持っているから、映画内で孔子やらなんやら哲学的なセリフが出てくると、衒学的だなんだと面白くない、不愉快だと怒る。それはそういった言説に対してコンプレックスというか劣等感を持っているから、怒るんじゃないだろうか。それが単なる流行語的なものだったり、お笑いタレントのギャグだったらそういう反応はないんじゃなだろうか。
専門性が高いものは確かに知識がなければ難しい。でもそれが世の中にとって必要な研究だったりするから専門分野が存在するし、誰彼もわかるようなことだったら、そもそも専門分野なんて必要ない。それがわかることが特権的なんじゃなくて、専門書の類には一般書には変えがたいドラッグのような中毒性があることはあまり認知されていないようだ。その手の快楽を得られるのが勿論、偉ぶれることでもなんでもない。専門書に限らず、いろんなジャンルに、知らぬものは感じられぬ中毒性の高い快楽はあるはずだ。山男やヨットで世界一周する人の快楽は知り得ようも無いように。
なんだか、全てが平等になにもかも与えられなければならないという幻想があるようで、そういう偏った平等意識が、ややこしいことにさせてる気がしてならない。
映画『イノセンス』のセリフでわけ判らないものがあったとしても、わからなかった人は判らないままにしておく自由も調べる自由も持っている。調べる自由をして特権的とは全くおかしな話で、それを知ったことで快楽が得られたとしたら、映画を観て快楽を得るという限りでは、映画で歌と踊りを見て快楽を得ることと同義となるだろう。
思うに、イノセンスのセリフと狸御殿の歌と踊りは同じくらいバカバカしいものなんだろう。それがその映画を象徴している一つには変わりないが、それを理解することがその映画を理解することではない。だから、イノセンスのセリフを理解しても、イノセンスという映画を理解したことにはならない。ましてや、それが押井守の言いたかったことではないだろう。ネット上で、イノセンスのセリフを解説するページなんてのがあるが、こういうバカバカしい徒労は大いに賛成である。ただ、それをしてイノセンス(押井守)のメッセージ(意味)となるとおかしくなるわけで、参考文献を読む快楽があって、その上で平行して映画を観て快楽を得る。その意味においては非常に有効であるに過ぎない。
まぁすなわち、踊りだろうが哲学だろうが、非常にバカバカしいというか、それ以上でも以下でもないということであって、それも含めて映画というメディアの懐の深さというか、虚構メディアの可能性の一つなんじゃないだろうか。

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1日ブルーな3時間弱

いわゆる大作だ。史実モノで客層も年齢高そう。まず泣けない訳が無い、といった感じのいい話なのだろう。なのになぜ行定監督??
カセチュウの時にも同様の疑問符が浮かんだ。彼のフィルモグラフィを見れば疑いを持たずにはいられないだろう。それほど、インディペンデント系(渋谷とか下北とか中央線とかいう形容でもいい)若手監督として注目されていた。永瀬とか浅野忠信とかがウダウダ同棲して夜中の高架下で喧嘩して薬やって始終ダルそうにしている映画の系統から、いきなりセカチュウかよ? そして吉永小百合かよ!??
矢口史靖とかもPFFで賞とって『裸足のピクニック』とか『アドレナリンドライブ』とか、そういった方向の映画を撮る人かと思いきや、『ウォーターボーイズ』が当って『スウィングガールズ』みたいな企画でしか撮らせてもらえないのかな、などという余計な心配してしまうほど、映画で飯を食うのは難しいのだろう。マンガ『め組の大吾』をドラマ化する際にメインタイトルが『ファイヤーボーイズ』になってしまうような悲しみを感じてならない。
仕事としてこなしたのか、どうしてもやりたい企画だったのか、行定の心情は知らないが、これが感動大作の顔をしていながら、細部の演出が実にステレオタイプな、まるで特撮ヒーローばりの大仰さなのだ。
#ちなみに以下、ネタバレ寸前あり。
たとえば、吉永小百合がレイプされそうになるシーン。寸でで豊悦が助けるのだが、その登場がスゴイ。吉永小百合を襲う倉蔵(香川照之)の顔をかすめるように横の木に飛んできたナイフが刺さる。ナイフの飛んできた方向を見るとそこには豊悦!
今日日水戸黄門とか必殺仕事人でもみないようなベタな演出。ラスト、豊悦が正体をばらして特攻するシーンでも、自らのこと(武士道がどうの今までの経緯がどうの)を浪々と語ってイザっ!ってな具合に刀を抜いて突っ込んでくる。子供が特撮ヒーローの必殺技をただひたすらに待ち構えるだけの敵役に「その間に逃げちゃえよ」とツッコミをいれるように、そんくらい大見得をきる豊悦。その後の展開もベタだし。
ことあるごとに、吉永小百合がいいこと言うと、まるでミュージカルのように役者が横に整列してるし、どこそこ構わず荒れた大地を耕し始めるし、文脈的におかしいだろう?という状況でも、明日への希望を見出した瞬間、間髪いれずにとにかく桑を持って畑を耕す。稲が根付かないといっているのに畑を耕す。
今にして思うと、テンションとしてはミュージカルかな。歌こそ歌わないけど、歌いだしてもおかしくないくらい状況とあわないアンリアルな演技に演出。役どころもステレオタイプで、長い話が結構なスピードをもって展開するので、そういう意味でもいわゆるマンガチックな印象を受けた。セカチュウはみてないけど、こういうマンガチックなベタができるってことは、ベタな恋愛モノで泣けるものつくれる監督なんだろうなって、予測がついた。
役と言えば、吉永小百合の気の強さってのも一応の説明がついているのだけど、動機付けが弱すぎる。というか無い。渡辺謙の気変わりも説明はあっても心理的に腑に落ちるレベルまでいってない。歴史に翻弄される人々というところで納得するしかないのだろうが、そういう心理描写の部分で歴史のせいにしてチャッチャと話だけ進めようってな感はぬぐえない。そこが尺の長い映画ながら時間を短く感じさせる由縁なのだろう。
時の流れには逆らえず、その中で如何に生きていくかという大命題を掲げながら、肝心の夢を信じて生きようと決めるに至る、その心理的プロセスが描かれていないので、なんでそこまで堪えられるのかが良くわからない。だから状況が悲惨なだけで、その悲惨さが解せないから、見ている側としては漠然と悲惨な状況をみせられている感じがして、そのブルーな気持ちだけが残る。もうひたすらにブルー。
ひたすらブルーといえば、山田洋二の『学校3』もひたすらブルーだったが、こちらは悲惨な状況でも心理的に理解できる描写がキチンとあった。なにも設定が現代だからというわけではない。たぶん、泣けるエンターテイメントの解釈の違いだと思う。
泣けるエンターテイメントをつくる場合、泣ける要素とかそういうものってステレオタイプとして殆ど決まっているのだろう。それをエンターテイメントの映画として成立させる場合、配役は人気どころ、話題性のある人は勿論として、そういった役者でわかりやすくつくるのに、『北の零年』は大仰でベタな演出という方法をとった。そういう点で言えば、『学校3』は大竹しのぶは話題性があったかもしれないが、小林稔二では渋すぎた。感情や問題意識という部分に重きを置いた分、エンターテイメント性は低いといえる。
その点、『北の零年』の感動度合いとしてはどのように受け取られているのか、非常に興味深いところではある。
以下は蛇足だが、舞台セットが日光江戸村のようにチャッチくみえたのは残念だったが、ロケパート、特に5年後になる前まではかなりよかった。話題の吹雪のシーンは圧巻で、冒頭の浄瑠璃のサクラも見事。そしてなんといってもイナゴ! 馬もよかったが、とにかくイナゴ。イナゴがスゴイよ、イナゴ! ある意味、イナゴ映画かもしれない。イナゴ嫌いは見ないほうがいいかと。気持ち悪いくらい。CGいい仕事してるわ。

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実写ってナンだ!?~未だ観ぬ『つるばらつるばら』へ

アニメだけじゃなくて、実写も何でも動画として記録されたものをメインに扱うことを決めた動画百席。第一席は実写問題。いきなり大上段に構えてしまったけど、大丈夫なんだろうか?

よく言われる映画はアニメで、実写も1/30コマのアニメであると。つまり映画とはアニメのことなのだ、という理屈。

アニメというとガンダムやエヴァンゲリオンとか、ヲタでアキバなイメージがつきすぎてしまうので、アニメーションとするとわかりやすいかもしれないけど、そこまで厳密にアニメーションという視野で観ているのって、オタクでもそうそういない(なのにアニメは文化だとかいわんでほしい)。でもまぁ、いわゆるヲタなアニメもアニメーションに違いないわけで、ま、そういうもんもなんでもひっくるめて、動画でいいかと。

そうなると、マンガってのは動画じゃない。マンガも扱うかもしれないけど、あくまで動画の引き合いとして。そこどまり。この理由は実はかなり根深いもので、この百席を追っていけば自ずとわかってくると思う。

まずはそのマンガ原作というヤツ。TVドラマでもいやというほど目に付くけど、アニメとなると、なんかマンガ原作の方が偉そうに写ってしまうのはなんでだろう?

なんて媚びたフリをしなくても、答えは簡単。国産アニメ第一号の段階でマンガを原作という位置づけにして、アニメをその下、二次的著作物という扱いにしたから。あの、手塚先生が。文句はいくらでも出てくるが、ともかくこの位置づけが後々尾を引いて、非常にやっかいな問題になってしまっている。逆にマンガを原作にしないと収益が出ない、というか企画が通らないのかな? という悲しい現実もあるわけで、如何ともしがたい。

ともかく、表現メディアとして方法論が全くといっていいほど遠いもんを繋がっているようにみせるもんだから、映像化されると、やれイメージと違うだのなんだのとクレームがついて回る。自分なりに解釈付け加えるのも面倒くさくなってくる。(^_^;)

原作なんて読んでる必要性ないんだけど、たまたま読んでたりすると、どう映像言語として処理するのか、ここを楽しむというのが原作つきも醍醐味だろうか。

で、先日なんかの記事を読んでいたら、犬童一心が出ていた。「ジョゼと虎と魚たち」で注目を浴びたが、未見で名前だけメモリーしていた。で、こんど上映するか撮ってる最中かの作品があって、もともと企画としては大島弓子の『つるばらつるばら』をやる予定だったという。

アホなこというようだけど、個人的には最初に『つるばらつるばら』やりたかった。あ、でも結局別の作品になったから可能性はあるか。

犬童一心のプロフを観ると、なんと以前に『金髪の草原』をやっているではないか!? 2000年か・・・知らんかった!

観てからまたここにカキコしようと思うけど、大島弓子原作狙いは、金子修介(『毎日が夏休み』)だけじゃなかったか。しかも88年に『四月怪談』も映画化されてるし。

観たのは金子の『毎日が夏休み』だけだけど、どうにもうざったい映画だった。原作の科白も散見できたが、フツーに演技上の科白にすると、どうも上滑りというか説教臭く響いてしまう。映画『毎日が夏休み』という世界ができてなく、マンガ『毎日が夏休み』を一生懸命なぞっている印象しかもてなかった。原作をよくよんでいる自分がいけないのかもしれないが、たとえば竹中『無能の人』なんかではそれを感じなかった。

金子の場合、『1999年の夏休み』(萩尾望都『トーマの心臓』がモチーフ)の方がしっくりいった。男性の役を女性でやるという試みが独自の映画言語を構築していたと思う。この企画も、最初はATGの企画だったというから合点がいく。そういう点では山田勇男の『蒸発旅日記』もつげワールドと形容されながらも師の寺山修司的な独自の世界観(つげ義春作品に美少年趣味はないでしょ)で、有でしょ。『毎日が夏休み』の功績は佐伯日菜子の発掘につきる!?

で、犬童一心。プロフ見る限り、市川準組だったのかしら? 『金髪の草原』で池脇千鶴ってあたり、市川準の『大阪物語』で脚本やってるから、その辺のつながりなのかと。

でも、日本の女優さんは若ければ若いほど、顔が生えるというか、パーソナリティのハッキリとした人が多いし、撮る側もそこら辺はっきり見せたがるから大島弓子の世界の女性としてはキャラクタが前に出すぎてしまうような気がする。まぁその辺の処理が犬童映画になっていればいいのだろうけど、未見ゆえ謎。

でも映画全般としてそんな傾向があるんで、監督の映画というより役者の映画になっちゃうんだろう。まぁ宣伝的には致し方ないのだろうけど。とりわけ大島弓子作品の場合、女性は魅力的であってもそれは結果論であって、世界というものを前面に出す、発動させるコアみたいな位置づけで、設定上はいるようでいない存在感薄めのキャラクタなのに、作品上では存在感ありまくりという難しいもんになっている。それゆえ、映像化の際は監督の世界の認識なんかがもろに影響でて面白いのだけど、原作がそういう素材ゆえ、ただの役者さん映画にするのはなんだかもったいない。

とまぁ、はじめてのカキコミで冗長になってしまったけど、長く続けるために今後は短く刻んでいくんで。

観てないもんでこんだけ書いちゃったんで、観たときのカキコとの比較が面白いんじゃないかと。

このブログの視点はこんな感じなんで、里程標になってればいいなぁ。

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