異能生存の存在証明(6)~装甲騎兵ボトムズ再考・最終回

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・ボトムズ的ハーフミラー

さあ核心に迫ってきた。キリコは何故、記憶を自ら思い出そうとせず、もしくはそういう思い出せない設定とされ、ただ彷徨っているだけで終わってしまったのか。彼だけが、歴史を背負わず、世界に相容れない異能者として、はじめから不完全性を証明する存在するのだとしたら、どうだろう。
歴史は、過去を証明する形で人々に付与される。ただ漠として、ビッグバンから現在の自分がいることの存在証明としている。過去が観測によってかえられるとすれば、人々の記憶そのものが疑わしいものとなってくる。記憶、あるいは記録というものが過去を証明する手段になっている(光源を見たという記憶、観測という記録、昔あそこに何々があったという記憶、地層からその地に以前何々があったとする記録)。
以上、現在・過去・未来という時間感覚のなかでは何を証明したところでそれは不完全なものでしかない。アストラギウス銀河の歴史然り、アレギウム然り、100年戦争然り。ロッチナでもペールゼンでもそういった歴史(世界史/自分史、体系)というあいまいな記憶の上で、あの世界の有り得べき一キャラクタとして、存在している。アレギウムなどは、信仰という崩壊まで揺らぐことのないハーフミラーをおいた歴史そのもので、ある意味、キリコがそのハーフミラーを壊したとも読める。
とすると、キリコが異能者たる所以というのは、ハーフミラーを持たないということになる。記憶をなくしている、歴史的体系を持たないのだから。不完全を地で行く彼はやはり、科学的体系の外にあるから、イデア論的な存在としては立現れず(レッドショルダー、PSはその点で頓挫している)、不完全な存在として、たとえば、レッドショルダーとしては不適当とされた。これらの仮説を妥当とすると、世界、存在といったものの不完全性の証明なのだから、どこぞのアニメみたいに「補完」とかそういう問題ではなくなってくる。そういうキリコのような存在は、アニメ(ビデオ/フィルム)のような記録媒体で保存されている時点で、記録・記憶の産物のなかのものだし、作品世界でもそのような不完全性の証明される土壌がない(アレギウム崩壊で大騒ぎなご時世だし)のだから、そりゃ、存在してはいけない。だから、時には異能者で、時には触れえざるものなのだ。
おや、では、彼をそういうふうにどうして規定できたのだろう。彼に対する他者のハーフミラーってどうやっておかれていたのだろう。いくらイレギュラーとは言え、その歴史上に存在していたことは確かだ。100年戦争の末期、フィアナに出会って、フィアナが死ぬまでの間は、世界の表舞台では知覚されていたのだから。
・・・そう、フィアナだ。フィアナと出会うことで、彼は様々に邪魔されるのだ。先を急いでいるだけなのに。先に現世利益みたいなことをいったけど、愛欲みたいなものが現世みたいな部分をつなぎ止めていたのかもしれない。とすると、フィアナがハーフミラー的役割を担う存在ということになるのではないか。キリコの不完全性はハーフミラーをおかない、記憶・記録のいうなれば向こう側の存在だが、それを証明(我々が確認、つまり知覚)するにはハーフミラーが必要で、ハーフミラーをどうおくかという、ハーフミラーそのものが非常に重要になり、現段階の我々では、ハーフミラーを置くということでしか視覚できず、手に触れられるもの(我々の手の及ぶ範囲にある媒体)から扱ってみるしかない。だって、ハーフミラーがなければ、記憶というもの、不完全性は立現れないのだから。アレギウムにとっても、ハーフミラーがなければ、異能者を触れえざるものにする必要はない。観測が過去をかえるのなら、ハーフミラーがなければ、キリコはマーティアルにとっては存在するはずもないものなのだから。
と、いうことは。そう、フィアナこそが触れえざるものだったのだ。


[了]


参考文献:
D・R・ホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』
JOCXTV+「アインシュタイン」
柄谷行人『批評とポスト・モダン
P・ヴィリリオ『速度と政治』

 



【初出:98年5月5日】

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異能生存の存在証明(5)~装甲騎兵ボトムズ再考

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4.異能生存の証明

キリコは死なない。この事実に驚愕したのがペールゼンであるが、人間は死を前にすると、もろく、はかない。未来、異なる惑星に開拓、移住となると、人間ではもろく、コンピュータ生命が人間のつぎなる生命となる、とされるのは定説であるが、進化として考えるなら、死なないというのがその絶対条件となるだろう。このような現状にともない、さまざまの思考実験がされているが、キリコが記憶を失っているというのも何やら記号的だ。
現在の量子力学では、突き詰めて考えると、人間が宇宙をつくったのではないか、とまでいわれている。人間原理宇宙論というのがそれで、この宇宙は人間にとって都合が良すぎることから考えられている。確かにビッグバンから現在、遡って考えると、ちょっとでも違っていたら、人間はいないのだし、いかされているともいっていいほどだ。で、この都合のよさというのは、


1-重力定数
2-強い相互作用の大きさ
3-電荷の基本的大きさ
4-光速度の定数


によるそうだ。過去これまでの観測を遡ると、こういう考えができるのだが、実際どうだったかなんてのは、証明されてから翻ってみるから納得しているだけで、タイムスリップしてみないかぎり、はっきりはしない。歴史の証明の筋道をたどるから、人間がいる一本道の歴史ができるのであって、振り返ってビッグバンまでの筋道を見なければ、人間はもしかしたらいないのかもしれない。記憶することによって、人間は今存在しているのかもしれない。
1979年、テキサス大学のジョン・ホイーラー は思考実験のための簡単な試験装置を作った。

※以下は簡略化したもので、正式なものはコチラを参照 されたい。


条件1:光はハーフミラー1を通って二つに分けられ、鏡1と2で反射され、再びハーフミラー2で一つにまとめられる。

条件2:例え光子が一つしか出ていなくても、量子力学の考えでは確率的に経路AとBの間のどこにでも存在しうるため、ハーフミラー2で、それらすべての常態がまとめられ、AとBどちらでも光を見る。

【画像はクリックで拡大!】

思考実験-条件  

実験1:ハーフミラー2を外す。光はまとめられず、光子は単独の粒子として振る舞う。AかBどちらかだけが光を見る。

実験2:光子が鏡を通りすぎたあと、素早くハーフミラー2をさしこんだらすでに光の粒子は鏡に反射され、光子が単独であることが確立してしまったのに、AとBどちらも光を見る。

思考実験-実験結果

∴人間はいつハーフミラーをおくかによって、いったん確立された歴史を過去に遡ってかえることができる。観測は過去をかえる。


光の歴史と宇宙の歴史とでは、量子力学的に記述されることにかわりはないのだから、我々が宇宙を観測し、宇宙の始まりにまで遡って、我々の都合のいいように決めてきた、ということになる。なんだかこれだけきくとど偉いことのように聞こえてくるが、最初の子供的な疑問に戻って考えるとそうでもない。
たとえば、学校の帰り道、ゲーセンに行こうか、古本屋に行こうか迷うとする。そして古本屋にいくと探していた本がたまたま見つかってラッキー! その夜思い返してみると、もしあそこでゲーセンに行っていたとしたら、自分は今どうなっているだろうと。もし無意識に古本屋を選んでいたとして、かつあげにあわないで、掘り出し物を見つけられたからラッキーだったという理由を、後から因果関係として動機づけたら、古本屋に行ったことが証明され、彼の歴史の筋道はつくられる。
非常に現世利益的で申し訳ない例えだったが、損得というハーフミラーを設置することで、歴史はつくられ、逆に、別の視点、現在ヤンキーで、あそこでかつあげにあっていたからという理由にしておけば、彼のヤンキー史が綴られるわけだ。


あと1回! つづく...

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異能生存の存在証明(4)~装甲騎兵ボトムズ再考

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3.倫理における神の存在

ギリシアの古典哲学では、神という概念ではなく、徳・真理・善・知・福が大事だったみたいで、ソクラテスなんかの徳の研究 から、倫理学が創始されたくらい。
で、本質(永遠・不変)の世界であるイデア界と感覚界(現象界)という我々の、イデアを不完全な形で模倣(分有)した変化の世界という二世界説を展開したイデア論 がプラトン。エロスという魂のあこがれが、イデアを想起させるのだそう。有名なのが、3角形のイデアで、三角形の原形は内角の和が「2∠R」で、我々が鉛筆で書くときの線などない真の三角形。でも、我々はそれを知りつつも、実現することができない。
科学で取りざたされた問題は、往々にこうしたイデア的な問いであり、その解として神を宗教的世界観ゆえ、持ち出してきた。アリストテレス の四つの基本元素も、天界にある第五の物質、エーテル を含め、中世錬金術のエーテル(賢者の石)の探求を経、化学における定量的研究(量子力学など、原子、ニュートリノ の研究の流れ)のもととなった。
先に紹介した「自然発生の否定」の考えは、アリストテレスの「形相 」と同じで、イデア的な、超感覚的存在を否定し、発達・成長の原理を追及した。
以後、ヘレニズム、ヘブライズムを経、ローマ帝国期、ルネサンス、宗教革命へと移行する。こうした歴史的推移は皆さまの知るところでもあるし、取り立てることもないが、理性と信仰の合一、ドグマ の確立などに見られるように、神というものが漠としてあるため、トマス・アキナス神の存在証明 にしろ、ルネサンス期の人間中心主義までは絶対的かつ便利な信仰対象でしかなたったといえよう。
神中心の世界、世界を超越した神から、世界に内在する神(能産的自然スピノザ )という汎神論へと移行する。ちょうど自然科学の発達(コペルニクス/ガリレオ/ケプラー)により、知と信仰の分離も始まる。これはこうした時世もあるが、以前強く神に捕らわれていることは前章に述べた通り。やはり時世からか、政治、道徳、自由意志が人文主義では取りざたされた。宗教改革でルターカルヴァン が台頭し、特にルターは近代の個人主義・主観主義の源泉となる。
以後、神はその歴史ゆえ、表舞台には立たなくも、問題にはされる。しかしその程度ではあるといえる。故にニーチェ はある意味で「神は死んだ」といわなければならなかったのだろう。ちなみにニーチェのいう超人とはキリコ的ではない。超人とは人間にとって可能体であり、キリコはいわば天然となる。この超人のように、倫理の対象は人となり、その関係としての世界、さまざまな事象となる。神は語られなくなったわけではないが、神は相対的な対象でしかない。問題として、いわば絶対的な存在ではなくなる。

大雑把で不足の多い概要となったが、実際神との関係を見出すとき、結局は歴史的な問題となるので、近代以降は扱えない。イギリス経験主義として扱われるバークレイ なんかは『人間知識の原理』で「物体」の実体性の否定から、神と精神の実体性は確実なんていってるんだけど。経験主義のある種の先天的とされる観念の否定(見えているものを生まれる前からそうでると誰が断言できる?ことから経験的に知覚できないものへの極端なまでの懐疑に陥る)は、ある部分キリコ的態度といえる。が、キリコ的懐疑が顕著なのは現代思想を待たなくてはならない。先にレヴィ=ストロース について述べたが、彼以降の思想でキリコの異能者としての存在がある程度見えてこよう。数学の基礎論 が元で、思想界にすさまじい影響を与えた、ゲーデルの不確定性理論 がそれで、「数論の無矛盾な公理系は必ず決定不能な命題を含む」。分かりやすく曲解しちゃうと、なにかが「ある」ということを証明するなかに、謎の要素が必ず存在する、ということ。これまでの話の流れでいえば、宇宙の成り立ちを証明するなかには、ビックバンを引き起こす要因(神の見得ざる手)という、謎の要因が必ず絡んでくる。それを証明しようとすると、ビックバンを引き起こす要因は知りうることはできない、つまり「ない」という結果が導き出される。つまり「ない」のにビックバンを引き起こす要因が「ある」と思うのはどういうことなのかと。
つまり、「ある」はずのなかに実は存在性はなく、あるということを「ある」べき要素が決定できない。わけがわからないのだけど、この時点ですでに神を絶対的なものとして取りざたするのはナンセンスとなる。ないものなのにあると信じて疑わないのでは証明にならないから。その神を信じて疑わなかった歴史こそ科学のロマンティズムで、神が絶対的でないからこそ言えるお楽しみだったのだろう。
ここで『ボトムズ』に敷衍してみよう。「ある」という存在性だけで、ただ彷徨うキリコという存在が、権威が失墜したとしても体制としてあるアレギウムの世界にいたとしたら。地動説どころの話ではない。それは科学者的見地からいえば、異能者であり、教会的見地からいえば、触れえざるものとなって当然。異能者という点で見ると、異能者を見た後、ペールゼンはレッドショルダーをつくり、PSを開発する。この流れの面白いところは、卓越した能力を持つものの集団、つまりは(生身の人間という可能体からの)超人集団をつくろうとし、その次に人間兵器(超人的な超越ではなく、科学的に人間には肉体的に無理な限界を超えたを始めから創造してしまっている)という点にある。ゲーデルの証明はコンピュータなしでは考えられなかったものだし、コンピュータ的(人間に不可能なことをする意味で)なPSへと登る段階は不思議な符号の一致にみえる。実際、クローン人間、人工知能、人工生命の研究がされている。
ということは、現在の思考実験などから、キリコ的なものがみいだせ、さらにはそこからボトムズという作品が見えてくるんじゃないだろうか。


つづく...

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異能生存の存在証明(3)~装甲騎兵ボトムズ再考

第1回  │ 第2回



2.神と科学

哲学(というか倫理といったほうがいいな)みたいなところでは、神との関係は近代に至るまでよく知られていることだけど、それと同時に、科学の分野でも神との関係、というより対立があり、寧ろより深刻な問題だったみたいだ。ライプニッツカント をみても、科学(自然科学)との関係性は容易に見出せるし、それ以前に、神を前提としているような世界観では当然とも言えるだろう。宗教的な観念からいえば、超越的な事象はすべて神の御技だから、よくある話、宇宙の果ては? と考えるときでも、そこに哲学的命題も、科学的な証明も同時に神をとりだして考えることができる。というか、いくら考えてもわからない以上、神を持ち出すしかほかに彼らには術が無かったというほうが正確だろうし、それほど神というものが大きな位置を占めていた(これは信仰にあついというだけでなく、だしに利用して私欲に用いるとしても、方法としていちばん都合のいいほどに絶対的だったということ)。
で、ここでは仮に宇宙の果てを考えてみるとしよう。なまじ知恵のついた小学生や中学生がよく抱く疑問だ。ビッグバンによって宇宙が誕生したのだとしたら、その前は何だったのだろう? 宇宙の果てのそのまた向こうは何があるのだろう? 宇宙が生まれ、地球ができ、今自分がいるということは、もしちょっとでもこの歴史に誤差が生じれば、人間は、自分は存在していないんじゃなかろうか? 自分がいないということをどうして考えられるのか、なぜそう仮定して考えられるのだろうか? う~ん、我々はのんべんだらりと生きてきて、いまだこの解答が出せないでいる。で、科学者はせっせと仮説を立てて証明しようとしてたけど、わかんなくなると、神がやったんだってことになっちゃう。
話をボトムズに戻すと、この話の世界観でも神というのは西欧的な意味で用いられている。ATなどのテクノロジーが発達していることからも、「赫奕たる異端」での「すでに信仰などない」「だが権力がある」という言葉を引くまでもなく、科学と宗教は同時に、というか別物として存在する。我々の世界でもこれまで幾度となく人間の超越的存在としてコンピュータが扱われ、人間がコンピュータに未来では支配されるとまでいわれたが、コンピュータ、あるいは科学を神格化するのは、映画やアニメ、小説にもよく題材となる。ボトムズにおける古代文明、ワイズマンがコンピュータであることをかんがえても、以上のような位置でとらえられよう。
神の存在証明を科学的というのであれば、それをアニメで扱うとなれば、ロボットアニメという選択は当然といっていい(当然、科学とテクノロジーを分かつ必要があるが、詳細を述べる文脈はないので、柄谷行人の『批評とポスト・モダン 』を、世界と兵器の意味合いについてはヴィリリオ のテクストを、それぞれ参照されたい)。
科学のロマンティズム(神、理想を追及する、みたいな)を考えると、ペールゼンのPS計画、レッドショルダー、異能生存体と、ボトムズにおける神と科学の関係が明確になろう。
と、ここで、科学史の神への挑戦の歴史を見てみる。それにより、ボトムズの世界観がある命題を背負わされていることが見えてくるだろう。


-ギリシア世界では、太陽、月、惑星(水、金、火、木、土)まで確認され、地球は丸いってことまではわかっていた。が、天動説がとられていた。自然哲学自体はBC600からなされていて、アリストテレス により物質理論が説かれる。
デモクリトスレオキッポス による古代原子論では、物質は不滅とされていた。アリストテレス学派の考えが崩壊し、天文学が始まるのが15~17C。


コペルニクス

かなり敬虔なクリスチャンだったらしい。でも、キリスト教の説く天動説と、ギリシャ古典のアリスタルコス の地動説が全く逆で悩む。当時の宗教界の大スターマルチン・ルターに、聖書を冒涜する大ばか者とされる。それでも地動説にこだわり理論体系を確立するが、これが中途半端で、神の意志の現れである地球を宇宙の中心から外す、まではいいけど、依然として惑星は円を描くとしていた。神のつくった運動は完全だからと、惑星の不規則な運動を知りながらも、いいはっちゃった。


ブルーノ
宇宙はどの点を取っても一様であり、つまり中心はない、という宇宙原理を説いた。星は均等に分布するから、宇宙は無限といったが、森の木を星に例え、遠くにすき間が生じるはずだから無限ではない、というオルバースのパラドックスと矛盾するとされた(これはむちゃくちゃな対立で面白い)。
当時、ライプニッツは無限(神はそんなに了見が狭くない、という理由)、ニュートンは有限(無限なのは神のみ、という理由)といっていた。いずれにせよ、神が強引なまでの理由づけとなっている。今の我々からではただの笑い話だが、要はそういう世界だったのだろう。


ケプラー
すべての惑星は楕円を描く、といったひと。このことによって、キリスト教的宇宙観、地球中心、起動は円という二つの神の意志の現れが放逐される。つまり、宇宙から神が放りだされる。でも、神学を学ぶ彼は、これでは立派な牧師にはなれないと悩んでいたそうだ。


ニュートン
ケプラーの三つの法則と万有引力から新しい力学体系を完成させたが、にもかかわらず、神がまだ必要だった。惑星は皆動いているが、慣性の法則で動いているのしても、では何かが最初の原動力を加えないと動きださない。それを「神の最初の一撃」と呼んだ(彼は、自分の理論の背後に必ず神がいると確信していた)。以後、18Cではデカルト主義者の衰退(=神離れ)から、フランスを中心にニュートン力学を数学的に体系化する流れが始まる。それから、力学の自律性(神なしの力学)が問われ始める。

cf.1 18C末、ナポレオンのもとにラプラス の『天体力学』が献上された。ナポレオンは、この本には神のことが書かれていないと問うたところ、ラプラスは、自分の書物にはそのような仮説は必要ないといったそうだ。
以後、科学の目覚ましい発展により、人間が神になれると信じた人も多く現れるようになる。でもこれは、まだ、神の影響下の世界というものの力も案じさせられる。

cf.2 量子力学科学が人間の近くの及ばない範囲にまで及ぶと、また事情が変わってくる。素粒子の存在する場所は確率でしか言えない、波動関数の確率解釈があらわれる。ミクロの世界ではものがあったりなかったりしてくる。


アインシュタイン
波動関数の確率解釈を否定し、「神はサイコロを振りたまわず」といった。アインシュタインにとっては、宇宙などすべて、秩序をもたらすものがなければならず、それは神でなければならなかった。というのは、一般/特殊相対性理論(豆知識:相対性理論はガリレオ。間違えやすいぞ!)と並び、宇宙原理/宇宙定数(/宇宙項)を説いたが、宇宙定数は静的な宇宙(=常態。変態、つまり動的では解がでない)を前提とした。晩年、宇宙は神の意志によってつくられたから、その神の仕事を解明することが科学に課せられた使命であると確信する。


フリードマン
宇宙原理を、宇宙の構造は時間とともにかわるから、宇宙定数はないという、フリードマンモデルを提出した。


ルメートル
宇宙原理を、必要に応じて宇宙定数があると仮定する、ルメートルモデルを提出した。


ハブル
アメリカ、ウィルソン天文台で観測。ドップラー効果では、音の波長が長い遠くなる。光が(スペクトル)赤くなると光の波長が長くなることから、遠くなる、つまり、宇宙が膨張していることがわかる(観測定宇宙論)。膨張しているということは、膨張する先が未来。逆に縮小が過去であり、始まりが点であることが予測される。


ガモフ
宇宙の始まりを、火の玉のようなものの爆発による膨張、これを火の玉モデルとし、ビッグバンの元の概念となった。火の玉のようなもので元素が合成され、爆発によって宇宙ができるとするが、宇宙に何もないとするなら、火の玉というなにものかがあったことを前提とすることになる。


-ビッグバンの元の元の最初の点は誰がつくったか、神しかいない、という見解がまた出てくる。ゆらぎの概念で説明がつきそうだ、というが、自分は専門ではないので、最近のことはよくわからない。知ってる人、教えてください。


以上、駆け足で自然科学、とりわけ神との関係についてまとめてみたが、こうした神との関係において、三つの、底を同じくする考えが見えてくる。


1)保存……ものをつくれるのは神だけだから、いったんできたものはどう加工しても人間や神の力ではなくすことはできず、形を変えてどこかにあるはず。

2)オプティマルの原理……神は無駄なことをしないから、自然はいちばん経済的な振る舞いをするはず。遠回りをしているようでも必ず、エネルギー消費を最小限にとどめている。ハミルトンがきれいに体系化できたそのおかげとされている。

3)自然発生の否定……すべてに原因があり、自然にいきなり何かが発生することはない。想像は神のみ。病気にしろ、物理的な原因があるからという考えが、西洋医学を進歩させてきた。
こうした考えは、イデア的と言ってもいい。プラトンのイデア論 に関しては、後世に与えた影響ははかりしれず、殊に科学に至っては、そのロマンティズムからも容易にその影響力は伺い知れる。キリスト教の神学を学びながら、ギリシアの古典を読んだコペルニクスに、プラトンとキリストが同居している。多くの科学者に、乱雑な現実に、秩序的なイデアを見出そうとする姿勢は、共通して伺える。


と、ここで、倫理的見地から、宗教と神と科学についてみてみたい。


つづく...

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異能生存の存在証明(2)~装甲騎兵ボトムズ再考

第1回はこちら

 

1.西欧中心主義世界

TVシリーズを話の筋で捉えると、理由もなく彷徨うキリコが、フィアナという目標を見つけ、フィアナと戦争のない世界へ行くことで完結する。これをこれまでの既成のロボットアニメへの批判として考えると、批判どころではない、ボーイ・ミーツ・ガールの典型ではないか、といわれても仕方ない。確かにそれでは片付けられないものがあるのだが、知らない人に概要を説明したなら、「なんだ」ってなものだ。冒頭で、『赫奕たる異端』で筋が完結するといったのはそういう意味で、TVでは理由が付けられてしまったからだ。それはフィアナと出会ってからの問題で、それ以前、キリコが何故という理由もなく、彷徨っていることには回答されていない。そう、何故彷徨っているのか、という「何故」が問題なんだ。
因果関係で世俗的にごちゃごちゃ動き回っている。それがこれまでのロボットアニメであり、キリコの脇を固めるものだった(地球を平和にするため、金もうけのため、友情のため、信仰のため、権力のため、愛のため、とかね)。そういった目的がキリコにはないのは、OVA『野望のルーツ』ではっきりしてしまった。100年戦争時代に記憶をなくしたキリコに迫る内容だったが、結局その理由は定かにはならない。そして『赫奕たる異端』で、もとの、彷徨う、只そこにいるだけのキリコの状態に還された。
茶番ともいえる作品世界の中で、キリコは只そこにいるだけなのに、異能者だとか、様々な意味付けをされてしまう。因果という意味で、まるで意味がなければいけないみたいに。こうしたことは実は私たちの現実にも起っていたりする。それはポストモダンや構造主義を巡る状況に似ている。これっていうのは、すぐに意味とか人間性とかをキリスト教をだしにして、それを信じている人(キリスト教者)以外は認めない、みたいな風潮のこと。リオタールって人は『ポストモダンの条件』という本の中で、「大きな物語はなくなった」といってるんだけど、ここでいう大きな物語というのはキリスト教やマルクス主義のことで、世界史とかやってた人ならそこら辺は痛いほど分かってると思うけど、教会やその主義主張を巡って対立してきて出来た歴史だから、そこで自分たち中心の世界が出来上がっちゃった。だれもそれを批判する人がいないから、おれたちは凄い、おれたちは一番、でその凄さを植民地にまで押し付けようとした。それが西欧中心主義と呼ばれるものなんだけど、そういうのを見直そうとしたのが構造主義の言い出しっぺのレヴィ=ストロースって人。この人は未開の地へ行って色々と民俗(民族)的なことを調べてたら、そこには自分たち西欧人の常識とは違うことばかりで、これまで西欧人は自分たちが世界だと思ってきたけど、外から見てみたら色々ある習慣、習俗の一部に過ぎなんだな、てことに気付いちゃった。
当然こういう考えは西欧人にとっては都合悪いからレヴィ=ストロースは苦労しちゃうんだけど、感化される人もいるわけで、それでこれまでを見直そうと、いろいろと動きが出てくるわけだけど、それはひとまずおいといて、それまで西欧で支配的な考えっていうのは、キリスト教的な、一つを信じれば救われるんだ、とか、神のみぞ知る、とか、それからそういった考えを盾に、神がこういってんだからその通りにしろ、とかいって権力とか戦争とかしちゃう。アレギウム化してくる。
そう、アレギウムなんだ。アレギウムにとって都合の悪い、レヴィ=ストロースがキリコみたいなものなんじゃないか。ということで、西欧史が如何に神を理由としてきたか、その歴史を振り返ってみよう。


つづく...

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異能生存の存在証明(1)~装甲騎兵ボトムズ再考

お久しぶりで申し訳ない!

だいぶ前に書いたままだったシリーズだが、前回の冬コミ(69)で全文書いたので、分割してUPすることにする。とその前に、これまた昔に書いた文章から続く文脈にあるので、まずはそちらをUPしてから、「押井版『ボトムズ』~その可能性の中心」を再会したい。


今更ボトムズについて語るなんていうのは如何に機能的でないか、なんてことは分かり切っている。ただ、リアルタイムで体験できなかった悔しさから、持つもの(アニメなどの作品)は十年経とうが持つのだ、ということを意固地に表明したい。
で、今ボトムズについて語るっていっても何を語るのか。正直、私はボトムズに関する評論の類いを読んだことがない。当時の世情を考えれば、ボトムズのような作品だったら評論まがいのものがたくさんありそうだが、オタクがまだ地下的であったからか、表面上には残りにくいらしい。だから、放映当時小学生で、裏の『クリーミーマミ』を見ていた少年がそれから十年の時を経て目撃した感覚で語られることとなる。
そこでポイントとなるのはOVA『赫奕たる異端』が完成されているということだ。これは意外と重要な意味を含む。私と同じ見解を持つ人も多いらしいけど、ボトムズの話の筋を追っていくと、TV版最終話ではなく、『赫奕たる異端』で完結していると考えているからだ。なんでそう考えるのか・・・そこに至る経緯も含めて、キリコは何故歩き続けなくてはならないのか、という大胆にも核心的な問題を扱っていくつもりだ。


0)提起

「なんだかボトムズって他のアニメと違うよね」なんて見た人は少なからずそう思うと思うんだけど、そこが魅力的というのは大方間違ってないだろう。じゃあなんで他のアニメと違うのか。先ず暗い。しかし当時のアニメは設定、テーマが暗いものが多かった。主流はロボットアニメという時代を考えるとサンライズの時代で、富野、高橋ともに差はあれ、これまでのアニメとは違った、暗いと形容が出来るテーマを盛り込んでいた。その中にあって、ガンダムとは違う意味で異様な持久力をボトムズが持ちえたのは、特異な物語性に多く依るんじゃないか、と睨んでいる。
設定の時点で、多くのロボットアニメが戦争を舞台にしているのに対し、話の本筋は戦争が終わったところから始まる。ちょっと深読みの出来る人だったら、これまでのロボットアニメへの、殊に富野作品へのアンチテーゼとも、戦争という状況を語るために戦争の外部から語るという方法をとっている、と解釈するんじゃないだろうか。この解釈を裏付ける要因として、よくあるロボットアニメは、主人公が少年で、戦争に巻き込まれることで成長していく、というような青春ものが多いが、キリコは地球のためでも平和のためでもなく、「だから大人は」とか、愛やら正義やらの大義名分のために「でりゃー」「どわー」いったりしない。キリコは単に「先を急いでる」。私が一番この作品で目を引くのはこの点にあったりする。
こうしたキリコを際立たせるかのように、バニラやココナ、イプシロンなどの脇役は浮いて見えるほどに、これまでのアニメ的な言動を見せる。先にあげた様なキリコの態度に対しイプシロンは説教をするし、バニラやココナは世俗的で、金や恋路や義理人情の話ばかりでとても感情的に描かれている。『赫奕たる異端』では確信的すぎるほど、モンテウエルズ枢機卿は名誉と権力に飢えている。マーティアルを巡る権力闘争、そこには信仰は既になく、支配的な教会権力を巡る争いがあるだけ。案の定キリコは興味ない。ラストで再生したアレギウムを全く無視して歩いていくキリコは象徴的だ。
これまでのロボットアニメ的な既成の要素がボトムズでは滑稽に描かれているように(=茶番)、「赫奕たる異端」では宗教が世界的に展開することによってキリコが世界から隔絶されたような図式が浮かび上がってくる。ここまでの文脈から考えると、アニメを巡る状況が10年を経て、ファンが信仰のようにキャラクターを捉えるという現象が激化した、そのことへの警鐘、と捉えて結論付けるのは簡単だ。しかしそこにはアニメそのものへと肉薄する問題が私には見えてくるのだ。


(2)へつづく...

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不完全性少女考(3)

(1)はコチラ

(2)はコチラ


3)“対”体験


素子が人形使いの融合の申し入れを受けた時にみたもの、それは天使だった。その後少女とされる義体に入るに至る。


・アニマ
河合隼雄によると、自己の全体性を表すものとして、対立物の合一のイメージがある。男性と女性の結合は、自己を象徴するのにふさわしいもので、西洋の場合、一度は分離された自我と自己は、それを結ぶ仲介者としてのアニマを必要とする。
アニマとは、男らしいペルソナを持つために男性の中の女性的な面として無意識界に沈む像である。女性の場合は、女らしいペルソナを持つための男性的なアニムスである。男性であれ女性であれ、潜在的可能性としては両性具有とするのがユングの特徴としている。
ユングは、夢を見たものにとって、夢の世界への仲介者がアニマであり、普遍的無意識そのものでもあるとした。また、アニマをグノーシス主義に於ける英知の女神ソフィアの「救済されるべき救済者」のイメージと重ねている。そして聖母マリアも、アニマの霊的な段階として典型とされる。母でありながら処女であるという、少女の清純さも合せ持つ。


・象徴のシステム
アニマは海(すべてを飲込むもの)ともされるが、聖母マリアが母でもあるように、母性には善母/恐母といった生と死が共生している。母なるものイメージは、なにものをも包み込み、自らと一体となる、普遍的な存在としてある。アニマ像として母が現れるケースがあるが、女性は母性を内包する。フロイトは、無意識とは広大な海で、人間の意識は海の水面に突き出る氷山の一角のようなものとした。これらから、ユングとフロイト、またはユング派とフロイト派の確執はともかくとして、

{無意識=海=アニマ=女性≧(母性=少女)}
という図式を導き出してみた。作品に翻ってみると、ハッカー(飲み屋の親切な男)が、逃走した水路の先で、光学迷彩をまとった素子にボコボコにされるシーンがあるが、あれは背景の新市街は無意識の海に浮かぶ氷山か・・・
メイン・タイトルOPのメイキングサイポーグで、素子の新たな義体が誕生する、生のイメージと、皮を剥いだ死体の如き、サイボーグのデスマスクが交錯し、触素形成液の中から浮上する義体は、水面に映り、素の鏡像と避週し(キスするが如く)、鏡像は波紋となって崩れ、顔のディテールが現れる。
ダイビングのシーン。フローターが作動して海面にあがるときも、鏡像と邂逅する(浮上までのプロセスはメイキングサイポーグと作画的に類似する)。ダイビング前は嘘の夢が消せない男の取り調べを凝視する素子(バトーはここで「疑似体験も夢も、存在する情報は全て現実であり、そして幻なんだ」という)からダイビングのシーンに入り、以後、素子は自己の存在に対して問いを立てている。
素子は新市街(9謀屋上)からヘリで、人形使いも新市街から車で、水没地区の、水没しかかった博物館にむかう。素子は浅い水の中のタンクと戦う。天窓のガラスが砕け(虚像が崩れる)、タンクの光学迷彩(ハッカーの光学迷彩参照)が破れる。そこから光(電子(ネット))が降り、天使が降りてくるようにみえる。
他にも枚挙に暇がないが、アニマ、つまり海的要因から、浮上する素子(もしくは天使)というシークエンスで埋め尽くされている。

・鏡

「今我ら鏡もて見る如く見るところ朧なり
 されど、かのときには顔を対せて相見ん」
これを聴いたバトーの間いかけに素子が答えず、背後を振り向く(カメラ(=鏡)自線。スクリーン=素子の視線)。そこには旧市街地に偏在する素子。
多田智満子は、鏡の語源は初め「影身」だと思ったが、「赫見」(赫す)だった、という。「影身」も一説にあるそうだが、『大言海』によると鏡は日像(ヒノミガタ)、つまり太陽のシンポルだった(太陽は照り、熱の光を地に降り注ぐ)。古代日本人は鏡を神の依代、つまり神像としたが、三種の神器の鏡は、万物を写して偽らず判別することから、知の象徴と為す、という説がある。また、鏡の古語はカタ(像)だった可能性があり、「賢明」の意の「カ」が出どこで、接尾語の「タ」がついたらしいが、「カ」は「上」を表す言語で、原形は「日」を表す。
海の水面などの鏡、そこから浮かぶ素子といったシークエンスの積み重ねの果て、死を想起させる人形のような自らの作り物としての身体をさらけ出した先に、指す光、天使の羽、そして少女の人形的義体へと映画は移行する。

・鏡像、童女
メルロ=ポンティはジャック・ラカンをして、

幼児にあっては、鏡像の了解とは、鏡の中に見えている姿をおのれの姿と認めるところにあります。幼児の世界に鏡像が入り込んでくるまでは、身体は幼児にとって、強烈に感じられはしても渾沌とした現実なのです。自分の姿を鏡の中に認めるということは、幼児にとっては、自分自身の視線spectacleがありうるということを学ぶことです。そのときまで、彼は自分を一度も見たことがなかったのであり、そうでないとしても、せいぜい身体の目に見える部分を眺めるという形で、いわば自分を盗み見たことがある程度です。ところが鏡の中の像を通して、彼は自分自身の観客たりうるようになります。幼児は、鏡像の習得によって、自分が自己自身にも他人にもみえるものだということに気付きます。内受容的自我から可視的自我への移行、つまり内受容的自我からラカン氏のいわゆる“鏡の中の私”ヘの移行は、パーソナリティの或る形態・或る状態から別な形態に移ることなのです。

といったが、ユングは自己のシンポルとして幼児をあげ、始原児と名付けた。義体が人形として象徴とされるように、人形は少女(童女)を模している。人形がデスマスクなどと死を喚起させるようなものとしても知られる。
本田和子は「童女は秩序社会の何処にも位置づかず」故に「人として扱われることの乏しい」「存在らしい」という。童女は神話などでは生賛など、代償として、「神と率寝(ゐね)る女」として、死ぬことが多い。本田はこうした童女をして「禊(みそ)ぎして潔められた聖少女の身体は、ただ一人の女神の前に己を透明化し、その神語(かむがたり)をあらわにすべく空無の器となる」、そして「一般に女性のものとされる「時の円環」、「生→死→再生」とめぐるそれは、少女によって無化された」とする。だとしたら、少女が概含としてあるから、我々が「神といえどもこの世界については、我々の経験と同じようなつねに完結することのない射映Abschattungの系列という形をとらない経験をすることはできない」(フッサール)から、全てを内包し(背負い)、超克するために、少女という幻想(義体)が生まれ、器としてのそこにそれ、少女を込めたのかもしれない。


[了]


■参考文献
・河合隼雄『無意識の構造』中公新書
・本田和子『少女浮遊』青土社
・多田智満子『鏡のテオーリア』ちくま学芸文庫
・夜想26「少女」ペヨトル工房


【初出:1995年12月30日】

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不完全性少女考(2)

前回はコチラ


2)虚構としての少女


C・L・ドジスンは写真を用いたのと同様、物語をつくっては女の子に聴かせており、アリスをヒロインに話したのが『不思議の国のアリス』だといわれている。彼が女の子と友達になるために虚構を用いることは、少女というものが概念であり虚構(幻想)であることは無関係ではあるまい。


・触れ得ざるもの
少女を虚構の物語で扱った日本の作家として川端康成があげられるが、三島由紀夫が川端康成に「少女に触れるということは、その瞬間から少女でなくなることであり、このアンビヴァレントなくして少女を想うことは出来ない」といった主旨のことをいったことに対して金井美恵子は、ここでの少女は「少女」というより「処女」である、といっている。少女としてあるということに処女であることが必須条件としてあるのだが、なら少女の虚構性とは、触れ得ざることと同義である。
少女は禁忌(タブー)の要素を持ち合わせているからこそ少女であり、異なる世界(我々のいる触れられる卑俗な世界をこちら、現実とすれば、少女のいる触れ得ざる神聖なる王国はあちら、虚構となる)の虚構性は禁忌という境界に守られている(谷崎潤一郎『悪魔』の、女性が愛する男性のハンカチについた鼻水を舐める描写に、当時の人々は仰天したそうである)。日本でのロリコン趣味はブルセラ趣味となぞられがちだが、少女とする対象が制服といった、性的に守られた、閉ざざれた空間にあるものとしての象徴をまとっていることが、その手の趣味人を、触れ得ざる、虚構に己をかけようとさせる。
[補足:これを物語として持つアニメとして『装甲騎兵ボトムズ』がある。主人公キリコの追う女、フィアナは文字通り触れ得ざるものとして存在し、しかもPSという人間を模した、いうなればアンドロイドである。結局キリコはフィアナを追い求めることしか出来なかった]


・少女の天使性
天界と人間界の媒介者として天使がいるが、ギリシャ神話にしろ聖書にしろ、虚構としての、あちらの世界を設定し、そこからこちらの世界に使者を送る。
ヴィクトリア時代の少女のイメージの一つは汚れなき天使の如き存在であったと先に引いたが、この時代、家庭は、男は外で働き、女は家の中で働くことが主張されていたと報告した富島美子は、こうした家庭の中に囲い困れた理想的女性像を表現するのが「家の中の天使」というメタファーで、神からの使者(angelの語源)、この世(=男たち)と神をつなぐ仲介者、となれば天使性と自己保存本能である食欲が抵触するのは必然としている。先の述べた、拒食症にみる少女のイメージと重なる。
清掃局員A(ゴーストハックしようとする方)は、清掃局員Bに自分の子供の写真を見せようとする時、子供を「天使みたいだろ」という。しかし犬だったわけだが、作中の犬は、旧市街地の人込みに紛れているか、テレビの中や広告といった情報として、偏在化している。ハッカー(飲み屋の親切な男)が光学迷彩を着て犬の広告の前を通る、このことは即ち、旧市街のネットとして、犬があることを現しているのではないか。これは、人形使い(ネット)との融合時に天使を見ることともリンクする(作中の看板はCGで起こしてコビーしたそうだが、犬の広告もそうなら、なおのこと……)。
(続く・・・)

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不完全性少女考(1)

不完全性少女考~攻殻機動隊にみる('95.12/30)

1)少女という存在をめぐって


エンドロールで、坂本真綾が声をあてているキャラクタは「少女(草薙)」となっている。何故草薙が括弧付きなのか?……少女の義体、あれは草薙ではないからである。
そのことは少女に対してバトーが確認をしているし、素子と入形遣いの融合の際に、人形遣いは「共生よりも統一された概念だ……融合後互いを認識することは不可能なはずだ」といい、また、素子の「私が私でいられる保証は?」との質問に「その保証は全くない――人は常に変化するものだし」と答えている。
「少女」とだけでは分からないので制作上の都合により「(草薙)」をつけたかどうかは一介の観照者に知る由もないことだが、融合後の義体を少女とすることで作品のミクロコスモス的な存在として位置づけているのではないかと勘繰ることは出来る。ここで少女というものから作品をみてみよう。


・少女の消費
少女とは概念である。少女というと思春期一歩前から思春期の存在をさしていると思われがちだが、それに相当する歳の女の子は、自分が少女であるという自覚はない。そもそも自覚するといった機能を有しているかも怪しい。少女について語られるのは、少女とされるもの以外の人々であり、その多くは少女とされる時期を通過し、その時期を振り返ったとき、または男性の幻想の対象としてでしかない(「少女なるものは中年のおばさんの中にしかいない」「男の夢の中にしか少女はいない」と金井美恵子はいう)。このことからもいえるように、少女とはある時期の女の子の周囲の人間によって付加されたイメージに過ぎない。
このことには「らしさ」という問題がつきまとう。子を生んだ親は、その子が女の子と分かるや否や、社会的な女性として教育する。つまり、その子に「女らしさ」を求める。人形を買い与えたり、髪にリポンを付けさせたりして。
若桑みどりは、こうした女らしさを親はいくつになっても子に求めるから、肉体は大人になっても精神は少女のままなのであり、女性が社会的に自立できないで差別を受けるのは、斯様に教育されるからである、というのであるが、自立できるか出来ないかはともかく、自分が気付けば少女でなくなり(気持ちは少女でも、自分が少女であると思えるだけの若さが自分の肉体にはない。少女というイメージに未発達の若い肉体は必要不可欠である)、少女の器として子供をみているとはいえる。よって少女とは、未成熟な形のおばさんのイメージとなるであろう。また「お嬢ちやん可愛いから一個サーピスだ」といった行為がまかり通るのは、少女のイメージからくる可愛さを女の子が素直に振る舞う(親の教育が見についている)からで、少女でいるとは、大半の行為が許される、特権的な立場にいることでもある。


・付与されたイメージから
当の女の子の方もそう教育されたのであるから、親の想う少女へと自己実現を図ろうとする。その一例として「拒食症anorexia nervosa」があげられる。富島美子の報告に従うと、食べなくなる原因は自分が不格好であると思い込むことが多く、症状がひどくなると、生理がなくなり、飢えを感じなくなる。しかし患者は自分の命よりも太ることを心配するという。拒食症の歴史を辿ると、第一期流行は19世紀ヴィクトリア朝とされている。当時の患者の殆どがイギリス、フランスの中・上流階級出身の思春期の少女だったらしい。ヴィクトリア朝に於て家庭は、男は外で働き、女は家の中で働くことが主張されていた。
また、ヴィクトリア朝は性的な欲望の発現が極端に抑圧されていた時代で、テーブルやピアノの脚を猥褻としてカバーし、愛とか魂とか歯の浮くような文句をいう人々が多かったと、飯沢耕太郎はいう。この時代の少女のイメージは大きく二つに分かれ、一つは、ピューリタン的道徳に律せられるべき、社会の秩序に組み入れられる以前の未分化な存在、もう一つは、汚れなき天使の如き存在、触れ合うことにより魂が浄化される存在としてあった。
数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドジスン、我々にはルイス・キャロルという名で知られている彼は、少女に対する執着についても有名だが、実際に、アリス・プレザンス・リデルを含めた女の子たちと仲良く出来たのは、ヴィクトリア時代のそうした社会的公認ゆえであった。彼は女の子の裸体の「未成熟な形」に魅せられていたが、女性関係やらトラウマやらで、少女が唯一の性的衝動のはけ口となった。彼が女の子の写真をとったのは、彼が抱擁したりキスしたりしようとすると女の子は逃げてしまうからであるが、露骨なヌードは遂に撮れず、残されたヌードは時代にかなったおとなしいものだった。しかしそれも、ある中年女の非難を恐れ、1880年に写真を撮るのを止めている。

(続く・・・)

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ルーズショットのニヒリズム~画の演出3後編

前編 からの続き)

踊るそこから敷衍するとなぜかアニメファンに嫌われがちな実写映画というのは顔のUPが少ないということになるのだろうか。実はその通りで、片岡千恵蔵や石原裕次郎などのキャラクタが全面に立った映画でいくら斜めのポーズのカメラ目線で見得を切ってもアニメほどの顔のUPにはならない。『踊る大走査線』のようなアニメからインスパイアされたような映画の場合、カメラが迂回してキャラクタによっていく演出が実に多く、キャラクタもアニメ的な、チビ、デブ、ノッポ、眼鏡、中年オヤジ的な極端な性格付けがされている。
押井作品が映画的とされるならば、こういったレイアウト的な要因は少なくないだろう。しかしそれは男パターンに限った話で、女パターンは強いて言えばアニメ的ということになるだろう。確かに『アヴァロン』はアニメの方法論で実写を作ったと監督自身述べていたから、強ち的外れではないだろう。
では実写作品ではエレベーターというシチュエーションはどんなレイアウトになるのか。北野映画『ソナチネ』のエレベーターシーン。狭い状況というのが伝わるレイアウトながらも、それぞれの人物は半身は収まっている。この後自決覚悟で乗り込むシーンが待っていることを考えれば、かなり内へ向かう心情のシーンとなるが、それでもここまで引いて収められている。
北野映画の場合、どんな銃撃シーンでもクールに演出されているから引きが多いというだけかもしれないが、北野映画は殆ど男主人公なので、引きでも心理描写として捉えてもこれまでの文脈上合点が行くだろう。押井男パターン作品と北野作品の近似は斯様な点から感じているのだが、俗に思われる印象としては、『3―4×10月』のような元の場所に帰る夢オチのような筋立てが似てるということのようだが、男の行き場のない自決型のニヒリズム、とりわけその描き方、距離感覚の演出が近しいという非常に感覚的な部分のような気がしてならない。
brother 『BROTHER』や『HANABI』で主人公はサングラスをしているが、このサングラスの画的効果は表情が見えにくい点だろう。それこそ敵の雑魚不特定多数のような、グリーンホーネット的なキャラクターならいざしらず、キャラクタの顔のUPを心情とするアニメやタレント性の強い実写映画の主人公ではまずありえない。その点で押井監督はバトーというキャラクタをセレクトしたといっていたが、外殻を描く映画なら表情で多くをわかりやすく語らないキャラクタとして適当だろう。それと似たような意味合いで、押井作品ではロンパリも選択される。
もちろん、キャラクタとその状況を描くレイアウトとして男主人公でもルーズな画が多いのはそうなのだが、これまで述べてきた文脈との違いは、『イノセンス』にしろ『HANABI』にしろ『ソナチネ』にしろ、主人公が相当出ずっぱりなのだ。外殻を描くためには状況のカットが増えると先に書いたが、『P2』のカメラの目線とは違い、『イノセンス』ではフレームには常にバトーが入り込んでいる。バトーが設定上、外殻の側のキャラクタであり、素子的な内在するものを持たない、あるいは抱きつつも完全にそちらの思考へは向かわないから、バトーそのものが外殻であるといういいわけも可能だ。しかし、それではちと詭弁過ぎる。あくまで映画の主人公としてバトーは立っているのだから。そういう点では、『Ghost in the shell』も『イノセンス』も主人公をフレームの中心として描いた映画として同等かもしれない。ただ、お互いのキャラクタの立地点、および到達点(アチラへ向かう/自らが形であることの同定)が違うことで、これまで述べたように描かれ方が全く変わってきてしまう。自己への認識の違いが、情報という不可視的なアチラの一部になるか、軽視されながらもそれそのものとしての圧倒的な存在感のある単なる形のひとつと再認識するかを左右している。『HANABI』『ソナチネ』『BROTHER』も、それこそ『DOLLS』も、どうにもならない単なる世界の一構成要因であるというだけの、事態を起こしたところで、その立地点に帰結する、なんでもないことを巡る映画ではないだろうか。

そんな作品のキャラクタは、状況という風景の中、紛れるようにルーズに佇む。

【初出:04年12月30日発行『notイノセンス?』】

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ルーズショットのニヒリズム~画の演出3前編

押井作品における主人公の女パターンと男パターンの違いは、構成やストーリーの違いと、映画を構成する様々のレベルでその違いが現れている。男パターンと女パターンについては、前掲「notイノセンス 」を参照いただきたい。
とはいいながら、画のレイアウトでみると、必ずしも男パターン/女パターンでは割り切れない部分が出てくる。寧ろ、『BD』以降/『P2』『イノセンス』パターン/『Ghost in the shell』『アヴァロン』といった分け方になる。『P2』までは明確にレイアウト的な描き分けが象徴的には感じられなかったが、以降、男パターンと女パターンで変化が生まれてくる。
素子 女性主人公が認識への問いかけをするとき、そのキャラクタが対話ながら自らに言い聞かせるようなシーンでは、キャラクタが背景から浮き出るような寄りの演出がされる。
このクローズアップはなぜか男性キャラクタでは殆ど見受けられない。『P2』以前の作品で印象的なのは、『BD』で♨から世界認識について語られるサクラが事態への認識を改めさせられる喫茶店のシーンで見受けられる。
サクラ サクラの場合、この後の行動から、このシーンで世界認識への疑念が生まれたことは容易に想像つくが、世界認識に対して自らが語りつくすことはしない。『BD』の場合、男主人公なので周囲が語る関係でサクラの疑念が自閉的でわかりづらいものにはならない。しかしサクラの心象は面堂や夢邪鬼に対してわかりずらくはある。
周囲が語らない『Ghost in the shell』の場合、このクローズアップの度合いが映画全体に充満している。『BD』でのタクシーの移動や『P2』での車での移動中の荒川のように、押井作品では乗り物での移動中にダイヤローグの形式をとった長いモノローグが多いが、エレベーターでの降下(上昇ではなく必ず降下なのだ)内というシチュエーションも多い。『P2』と『Ghost in the shell』で比べると、『Ghost in the shell』での寄りっぷりは一目瞭然だ。エレベーター攻殻
ここでも素子は自らの問いを吐露しているが、バトーに一蹴される。語りが内へ向かうと画角が窮屈になる。『P2』では柘植について質問され柘植と南雲の関係を案じさせるシーンだが、南雲が気を使いながらも柘植への想いを思い起こすシーンで、必ずしも自らの気持ちに対して否定的かつ自閉的なシーンではない。この点が素子との明確な違いで、この違いがハッキリとしているのは窓にある。
素子のシーンでは密閉型のエレベーターで構図も窮屈なのに対し、南雲のシーンでは外側片面の殆どがガラス張りで、画的にも外の映像が執拗に描かれている。
話の文脈や作品の世界観の描き分けでたまたま違いが出ているだけで、アニメは制作の制約上、顔のUPが多いだけなんじゃないか? と思われるかもしれないが、男/女パターンは画の構成を見ると割り切れないといったのはこれにある。つまり、『P2』以前というのは、制作費的にも技術的にもどこまで描けるのかを考慮してコンテを切って、レイアウトを決める必要がある。だからもっとルーズの画が欲しい点でも、別の演出で乗り切ったりする状況があったことは容易に想像ができる。男/女パターンで見分ける場合、その片鱗を『P2』以前の作品にみられても、その演出意図がはっきりと見て取れるのは『P2』以降となる。
ちょっと証明してみよう。エレベーターのシークエンスといえば、上記以外に『P1』で方舟をぶち壊す意を決する後藤と遊馬の会話があるが、この画も窮屈である。しかし内在的な心象が描かれているわけではない。問題はこのあとだ。エレベーターが止まり、エレベーターから出てくる、その出た先にあるものだ。『P1』は外で野明が待っている。『P2』では開放的な人の行き来が描かれたロビーフロア。そして『Ghost in the shell』では冷たい色合いの閉鎖的な通路!
男パターンではキャラクタのいる周囲の状況を含めたレイアウトで、極力外側を沢山描こうとしているのに対し、女パターンでは実にキャラクタの寄りが多い。シーンごとに見ても、かなりの割合で主人公が登場している。素子もアッシュも出ずっぱりである。それだけ、主人公がいない世界の描写がない、同時進行しているはずの他の場面の状況描写が少ない。ここらへんは『P2』が非常に顕著で、後藤や荒川や南雲がいないカットが多いことは多いのだが、群集を俯瞰した街のショットや人すらもいない風景描写が実に多い。つまりキャラクタがどうしたこうしたという描写ではなく、戦争という時間が演出された街の状況描写をこの映画に一貫した切り口として作られているからだろう。
ということは、顔のアップの多いアニメは技術的な制約が先かストーリー傾向が先か、どちらにしてもキャラクタがどうしたこうしたという作品ばかりということになるのではないか。ずばり、その通りで、制作者サイドもアニメファンもキャラクタの動向にばかりに関心が強いのではないか。
(・・・続く)

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イノセンス~駄文

イノセンスのことでアチコチ検索かけていたら、コミケでは毎度おなじみ野良犬の塒にて、飯田橋で先月行われた講演会「『彩・選・単』塾 アニメ宗教学講座」(主催・NPOちんじゅの森)のことが紹介されていた。

時間の無駄なのだが、奇特な方は読んでみてください。

http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/kp50601a.htm


講演をすべてきいてない身で判断すべきではないのかもしれないが、これはなんなんでしょ?

なんというか、言葉もないが、宗教学という観点から、エヴァをして「旧約聖書「創世記」のアダムとイブを連想させる場面だ」とはお粗末この上ない。

分析ではなく観たまま。シーンの説明でしょ。

案の定、「攻殻機動隊」という設定から宗教の話になっていて、映画という視点がない。

こういう講座自体がどういうニーズがあるのかわからないけれど、チープ極まれり。

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notイノセンス?[後編]

現実と虚構の境界がストーリー上曖昧なまま、釈然とした提案がされぬまま終わるのは、『アヴァロン』に限った話ではなく、多くの押井作品に通じる要素だろう。だから映画を観終わった後、劇場を出るのがとても面白いのだが(まるでアッシュが恐る恐る世界を覗くとフルカラーの世界になっていくように、鑑賞後は劇場の扉を開けて外に出よう)、『アヴァロン』は所謂ラストの着地点が作品の設定上、出発点とされる世界、つまり学園祭前日のような元いた場所ではない。元いた場所でないところで終わっていない、つまり行きっぱなし、さらにその先の世界を示唆して終わる作品は『アヴァロン』だけではない。あげれば『Ghost in the shell』『みじめ!愛とさすらいの母』があげられる。

実はこれらにはある共通点が存在する。世界を彷徨うのが女性なのだ。個人的な話で恐縮だが、『Ghost in the shell』以降、『イノセンス』をみるまでなにか座りが悪いというか、楽しみながらも釈然としないものを抱いていた。それまでの男性が主人公の作品は、ラスト、所謂犬死をするケースがある。『ストレイドッグ』の乾、『麿子』の犬丸などがまさにそれで、オヤジ要因として世襲のある『迷宮物件』ももうひとりの自分を捏造する必要のあった『トーキングヘッド』も一種の犬死だと個人的には解釈している。男はさんざん右往左往しながら、結局もとの場所に戻って地を這い回った格好で、結局何も変わっていないか、犬死で終る。女性はいったきりになってしまうのとこの違いはなんなのだろう。

自己の存在への問いからくる世界認識への疑念というものはあまり変わらない。しかし男の場合、その認識へいたる変化が自らを取り巻く事象の変化、つまり自らから発せられる疑念ではなく、周囲のキャラクタや世界の異変に巻き込まれていく形で仕方無しにとりあえずの決着を試みるのに対し、女は自らが認識への疑問を既に抱いているか自らが抱くにいたるかし、自らに決着をつけるために自発的に行動に出る。素子は言うに及ばず、アッシュは自ら本を調べたりネットで検索したりするし、あたるの母は世界の仕組みに気づくや開き直って夢の世界を遊ぶ。非常に行動力に満ちていて、殊更アッシュと素子はアチラへの関心が強く、変わることに対する迷いが殆ど感じられない。迷いがないということは葛藤が描かれることが少なく、言動が唐突になる。いきなり自己認識や世界認識に対する疑念を語れば、率先して戦場へ赴き一人で事態を全て収拾しそうな勢いでラストバトルへ臨む。『アヴァロン』などクラスSAへの条件がパーティーでなければ一人で向かいそうな勢いである。そこらへんの必然性は設定で補われてはいるものの、あの突発的な言動には戸惑いを覚えざるを得ない。

男主人公の場合は、周りが散々語ってくれるし、主人公が巻き込まれていく過程が映像として状況が描写されるので、時系列を追うように世界認識の変容がみてとれる。だから心理的状況が解せるように見ていられる。その点が自分の中でおそらく違和感となって現れたのだろう。

『BD』だったらサクラ(女!)をメインに事態の経過が描かれる。夢邪鬼も相当に語るが、あたる本人は殆ど世界認識について語ることはない。言動からみて把握はしていても語りはしない。『麿子』でも犬丸は語るが世界認識に対する疑念を語るのはもっぱら多美子や文明や伴内だ。『ストレイドッグ』は林、『P2』では荒川ときりがないが、主人公格で語る男は『迷宮物件』くらいだろう。しかし調査対象の男が主人公であって、最後に自らが主人公となっていたわけで、世界認識へいたる過程において語るのは主人公となる周囲の人間、この場合は被調査対象である<私>になる。

こういった語りのダイナミズムという現実から対比世界の開示へと繋がるカタルシスが押井作品の一種の醍醐味でもあるのだが、発語者が主人公でありその内在する想いを内に秘め、一人ごちるように、つまりは自らへの問いかけとして語る場合、その発語によってダイナミックに映画内時間が進行するわけではない。その内在する問いに対する回答を得んがための行動なので、周囲のキャラクタは巻き込まれる形となり、観客も衝動が判然としないままになってしまう。これが女主人公パターンに該当する。

始めの方に述べたように、この女パターンでは世界認識・自己認識への疑念によって女が向かう先はアチラ側の世界で元の場所ではない。いうなれば地を這う物語、外殻を巡る映画というものとは、対比される世界の描かれ方が変わってくる。即物的なマテリアルへと向かう視座で女の主人公はあり得ない。アチラがどうしたこうしたというストーリー上の問題ではなく、アチラを設定することで、目に見えるこの“モノ(事象・現象・図像とも)”との対比として描く方法論は押井作品といえどもそもそも女パターンでは成立しやしないのではないだろうか。義体への関心の薄い素子といった表現をしたが、『イノセンス』では対比される事象としてある人形そのものが『Ghost in the shell』では素子自身(認識しうる器)でもあったわけだから、認識への疑念が語りではなくうちへと向かう自問であって当然なのかもしれない。

しかし、とするならば、映画という眼前に映る現象として、『Ghost in the shell』とは如何様に捉えることが可能なのだろうか? それこそ個々人の鑑賞に対する感想として、極個人的なものでしかないのだが、所詮スクリーンに映る化学的現象であるという外殻的認識を以て映画と接する場合、観客という発語者とは逆の立場上、語りうるところを持てない。少なくとも観客として、目に映る現象に対して語る視座は、その作品世界という対比世界の中のキャラクタにあって、主人公の周辺にいて語りうる、観客であるところの自分と対比関係にあるキャラクタの世界認識に対する語りが殆どない場合、唐突という印象を持ってしか眼前の事象を把握できない。だから『イノセンス』を観たとき、バトーにとっての素子が少女の義体という視覚的対象であるように、観客である自分にとって人形という視覚対象ができて語る術を得た。

その語りとはイノセンスというタイトルから発する以上の発言となるわけで、それは視覚対象を巡る鑑賞方だった。斯様な道筋も、元の場所に戻る、つまりは文頭へと戻り循環する形式をとっている以上、この文章も男のパターンそのものなのだろう。

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notイノセンス?[中編]

昨今ブログで感想をUPし、これまでよりも多くの人の感想が見れるような状況になっている。そこで『イノセンス』の感想をみてみたが、多くは非常に客観的、つまりは冷静に状況をみているという印象だった。確かに押井作品を人に勧めるという行為を考えれば、奥歯に物の挟まった言い方にならざるを得ないのは仕方ないとは思う。だがブログという日記的な表現の場において、不特定多数の目にふれるとしても、その人なりの楽しみ方がなされてなければ、見る側としては煮え切らない思いがするばかりではないだろうか。「いつもの押井」「万人受けはしないが、これはこれであり」「映像だけでも見る価値あり」などと他人を気にした表現ばかりで、自分がどう楽しめたか、という感動が伝わってこない。これなら、「つまらない」「衒学趣味」という怒りの反応の方がよっぽど伝わってくるものがある。
しかしこれれを非難しているわけではない。それこそ、100人が100人なりの肯定的なり否定的なりの感動があるとは思えないからだ。そうではなく、これまでいくつかの押井作品を見てきた、多少なりとも好きだと思われる人の感想として、「自分はなにものなのかといういつものパターン」みたいな言い回しが殆どだった。
ちょっと待って欲しい。確かに押井作品にはそのような科白はどの作品にも必ずといっていいほど登場する。だからといってアイデンティティを巡る旅の物語=押井作品なのだろうか?
 
主人公が自らに懐疑的になり、自己を同定せんがためのドタバタに巻き込まれアチラとコチラを行き来して世界の全貌をみて、そして現実と目される地点に戻ってくるストーリーがあれば押井作品であって、そういった筋の話は全部押井のパクリみたいな風潮をどうにも感じてならない。一人の人間がつくりたいと思うものの話というものは大してヴァリエーションのないもので(あるとすれば仕事として書きたくもない話を量産できるタイプの作家だろう)、その限りではこういった筋立て=押井作品だろう。しかしどうも自分にはこういった筋立ては結果的に選択せざるを得ないものでしかなく、他にないから結果的に似たようなパターンになってるだけに思えるのだ。
というのは、中身と外殻の対比のように、映画という眼前に上映される現象そのものを考えたとき、見る側(観客)と見られる側(投影されている図像)の関係をアチラとコチラとして、それを劇映画という形式に当てはめて、その関係を巡る物語に仕立てると、いわゆる押井作品の筋立てパターンにならざるを得ないというだけなのではなかろうか。この筋立てを以て取りざたすることこそ、その中身とされるもの(ストーリー)ばかりが取りざたされ、映画が観れていること映画という状況について考えられていたことがないという状況、それそのものではないだろうか。関心は、アチラの世界にいって、コチラに帰ってくるとか来ないとかではなく、どちらが本当の自分なのかでもない、対比として似ている世界がもう一つあるという、観客と映像と同等の状況にあるのではなだろうか。翻って、自分が今目撃している映画という状況に対して向き合う契機になる構造を保持するため、映像はストーリー以外のレベルでのスクリーンと観客の関係を対比させてる事情に満ち溢れ、科白にとどまらぬ瑣末なオブジェクトにさえ力点が置かれ描写、演出されている。先に述べた人形の外殻の表現もそういったものの一つだろう。
仮に斯様な物語パターンが押井作品だとしたら、ほぼ100%該当するのかといえば、そうでもない。かなり広義にとっても、『BD』『天使のたまご』『紅い眼鏡』『迷宮物件』『トーキングヘッド』と、かなり初期のものに限定される。一連の犬モノでも、『紅い眼鏡』以外は所謂押井ストーリーの形式をとっていない。『パトレイバー』にいたっては、強引に『その名はアムネジア』を入れなくてはならないほど、アチラもコチラも出てこない。『P2』での「あの街が蜃気楼のように見える」という科白などから垣間見れるだけで、ストーリーの形式とは外れている。
ストーリー云々より寧ろ、作品時間の構成が似ているとは思う。イントロ~OPで事件の一端を象徴的に魅せて、時間の経過につれて事態が進展し、その事態を根底から疑わざるを得ない事件が起こり、事態をなんとか強引にでも収集すべくどこかへ乗り込んでドタバタ~とりあえずチャンチャン。時間を扱う表現作品では、時間操作が作り手に委ねられるため、受け手の都合で経過する進行速度をコントロールすることはできない。DVDなどで早送りはできても、ある1シーンを伸縮させることはできない。案外にこうした作品を見ている間のリズムが印象に影響するもので、作品内の構成リズムが似ていると、見る側は科白の進行によるストーリーを追う習慣ができているので、ちょっとした科白の同一性などで「似ている」と思いがちになる。
ちょっと待てと、それはストーリーの筋立てとどう違うんだ? ストーリーとは繰り返しになるが時間的には可変なのだ。同じストーリーでも、たとえば、自らを疑うようなシークエンスをえらい短くして、最後のドタバタを100分の内の70分やることだってできる。そうしたとしたらかなり印象の違う映画になるはずだ。ちなみに、この作品構成の押井作品を考えると、ストーリーの近似よりも該当確率はかなりあがるはずだ。『パトレイバー』劇場版2作品も『Ghost in the shell』、『アヴァロン』、『ストレイドッグ』もこの構成のはずだ。
といいながら、自分に対していちゃもんをつけてみる。『アヴァロン』も該当するだろうか? 大筋においてはかなりの該当率だが、ラストがどうにもとりあえずチャンチャンではない。フルカラー映像のクラスSAへ到達しマーフィーと再開、そしてこのクラスSAも可能世界であることを示唆され、次なるレベルへと向かう、のか? to be countinued... という感じで幕を閉じる。クラスSAをとりあえず現実としておいて安穏と暮らしてもいいが、マーフィーがこれまでのキャラクタと同じようにCGでモワワワ~ンと消えたこと自体、この世界もまたゲームとしての可能世界の一部であるととれる表現になっている。しかし暮らそうと思えばここも日常という現実世界として認識することも可能で、なにを以て現実なのかというこれまでの中でも述べたような、見る側と見られる側の認識世界の対比の構図がここにも現れている。
(以下(3)へ続く)

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notイノセンス?[前編]

いきなり根本から問うてしまうのだが、イノセンスというタイトルに違和感を覚えた方はどれぐらいおられるだろうか?
とりあえず、イノセンスを辞書で引いてみた。
 
in・no・cence
━━ n. 無罪, 潔白; 純潔; 無邪気, 純真; 単純; 無知; 無害;
三省堂「EXCEED 英和辞典」
 
なんでこんな意味合いの言葉がタイトルなのかさっぱりわからない。文頭ながら既にタイトルがどうしたこうしたなんてことがバカらしくなってくるが、タイトルなんてあってないようなもので、なんとなく響きがよければいいのかもしれない。
わからないといえば、キャッチコピー。「イノセンス、それはいのち。」っていわれても、なんのことだかさっぱりわからない。そしてテーマソングの“Follow me”。個人的には嫌いじゃないが、わざわざエンドロールで字幕出すまでのものだろうか。歌詞もさしてリンクしているようには思えない。
敢えて歌詞を考えてみると、女性が、話に聞いたかなんかですばらしい世界と思っている向こうの世界に連れてってくれってと、おそらく男(恋人かな)に頼んでる歌。以前に元はっぴぃえんどの松本隆が松田聖子の歌の作詞の際、あざといほどにセックスをテーマにしたら売れてビックリしたっていってたが(キッスいんとぅ~ヘーブン♪)、歌というのは恋愛の歌が多く、とりわけセックス的な意味合いが多い。押井監督が以前、『紅い眼鏡』をして、ないのはセックスくらいなものだ、みたいなことをいっていたが、素子とバトーの恋愛劇という要素でみれば、足りないセックス要素を補っている歌とも取れなくもない。
しかしこの2人の関係は先にあちらにいったのは素子、つまり女の方で、取り残されているのはバトーじゃないだろうか。バトーが犬的に地上を這い回っていて、素子はさっさと広大なネットの世界にいってしまっている。素子の意思、というポジションで考えれば、イノセンスってタイトルもわからなくもない。だとしたら、前作に当たる『Ghost in the shell』のタイトルであるべきだろう。素子が自らを同定せんがために、その可能性を求め、現実と目される世界からネットの海へと向かうのだから、その先にあるものが純粋なものかはわからないが、現在の我々の感覚としてはそれを純潔なるものと称しても、ニュアンスは伝わるのではないだろうか。
バトーはアチラへ行くことを望まないし、それを素子の対比として、所謂俗世的なものにこそ純潔が垣間見られると逆説的に捉えられなくもないが、そこまで穿った見方をしなければならないわけではないというのは、とりわけ押井作品はタイトルとは宣材以上の意味を持たないとでもいいたげなものばかりなことからも窺える。
 
無駄な述懐はここらへんで止しておくが、斯様な迂回から見えてくるものとは、それだけ形骸化されたタイトルとリンクするかのように、命とは対比的に捉えられがちな人形というモチーフが全面に押し出されている。
『Ghost in the shell』公開当初、自分はコミケデビューとなる評論『不完全性少女』において、義体と人形(四谷シモンやベルメールなどの所謂作家モノ)の関係性について述べた(先見の明があったと偉ぶるわけではないが、誰も何も言ってくれないのは哀しすぎた)。それはともかく、我々が抱きがちな、心身二元論的解釈からくる、人形と命の関係は、『イノセンス』という映画を観れば、そういった切り口で語れなくはないまでも、ストーリー的な大筋において全面的なテーマとはどうも捉えにくい。寧ろ、前作『Ghost in the shell』でも取りざたされている、身体の拡張、すなわち自己をいうものをどこまで同定すべきかという問題を巡る映画ではなかろうか。『イノセンス』でもバトーが手術台のような上で自らの腕を見つめるシーンがあるが、義体化された身体をオリジナルとして自らを規定する一部となりうるのかという疑念に対する示唆を1カットで表現している。
しかしこれは『イノセンス』を『イノセンス』たらしめている独自の映像言語ではなく、「攻殻機動隊」に通底するテーマだろう。『Ghost in the shell』では身体的拡張は意識レベルでの自己を基として、形骸化した身体を一種の拘束物かのように扱い、そこから離脱してネットワークの海の中で情報として生息(敢えて身体的表現をすれば)していることでそれは自己であると同定できることで、作品上の自己同一の結末を提示している。だからまるで『ボトムズ』のATのように乗り捨て的に、最後のタンクとのバトルでも、素子の義体がぶっ壊れる描写がゆっくりとしつこく描かれている。
一方『イノセンス』でもオープニングからセクサロイドが自ら胸襟を開いて中身を景気良くご開帳しているし、ラストの暴走セクサロイドとのバトルでも執拗にカラカラと人形がパーツごとに分断していく様子が描かれている。『パトレイバー』劇場版1作目で松井が鳥篭を踏むSEは鶏の卵の殻が砕ける音をサンプリングしたそうだが、あのカラカラカラという音に極めて近似した、ああいう技術の詰まった人形にしてはなんとも軽い音がする(セクサロイドということなら重くちゃ仕方ないのだろうが、だったら肌の質感が機械的でなく、高級品という設定からもしっとりとしているはずだから、なおさらカサカサお肌の硬質パックが剥げる様な音ではないはずだ)。
表面上は綺麗に装っていても中身はグロテクスですよっていう見せ方というよりも、殻の部分をみせるための対比としての中身のケバイ色合いと捉えられないだろうか。「自分は何者なのか」とかいう自らを如何に同定しようかという疑問、それは自らが疑っていることこそ自らがあるという証明であるというデカルト的な懐疑ではなく、物体を認識付ける外身、外殻ただそれ単一のみが存在を存在たらしめているのであって、それを目して「これは己なのか」という疑念こそ、そもそも自己を同定する材料でもなんでもない、というストイックすぎるような唯物的な考え方を感じてならない。
だから素子が情報の海にいようがいまいが、何らかの物質を通して感じ取れたことがバトーにとっては重要なのであって、バトーが自らを如何に同定しようかということそれ自体は、作中に殆ど描かれていない。自分が何者かということよりも犬との生活の方が大事なのだろう。脳の一部以外の殆どを義体化したキャラクタとして、生身や中身といったことは一種の権威主義的な取るに足らない概念に過ぎず、外殻に対して中身が優位であるということ自体が胡散臭いことなのだろう。証拠に、ラスト、生身の少女にバトーが説教をするシーンがある。精巧なセクサロイドのための、いうなれば生身の生贄なのだが、これだけみるとゆうきまさみ原作のコミック版『パトレイバー』のバドなどを連想させるような、少女買春の類の話で、被害者でもある少女を説教するという構図に違和感を覚える向きも少なくないようだ。しかしそれは先に述べたように、中身とか命とか、外身や外殻と対比して重要視されるという教育の賜物であって、生命という見地からみても、絶対的優位性は確固として確定はできない。繰り返しになるが、自己を同定するもの、人間が人間であると客観的にも主観的にも断定できる要因は、脳死の問題に限らず、肉体が精神に劣ると限ったものではないのだ。見えないからこそ、珍重され、時代によって、腹、心臓、脳と、一個人の人格を確定するとされた部位が変化しているのはなぜか? こういう話は本位ではないので以下省略。
バトーの説教の中で、人形の気持ち、といったニュアンスの言葉が出てくるが、バトーというサイボーグ野郎はキャラクタとして設定されているから“気持ち”という類の概念が科白としてセレクトされたのだろう。これまでの文脈から解釈すれば、「中身より蔑視される外殻というものが考えられたことはあるのか?」といったところだろうか。
多くの映画が主題とされるものとして、この中身の問題を取りざたしている。多くの流行歌が恋愛の歌であるが如くに。しかし映画がスクリーンに投影される現象であることへの問いは殆どといっていいほどなされていない。映画について語られる場合、その中身とされるもの(ストーリーなど)ばかりが取りざたされ、映画が観れていること映画という状況について考えられていたことはあるのだろうか?
ちょっと、バトーの説教を映画に敷衍してみたが、こう書くと非常に押井論っぽく聞こえる。こうした類のものを押井論として捉えられるのだとしたら、それは同時に映画論になりうるのは文意からすれば当然のことだろう。しかし前々からこうしたことに対して一つの疑念がフツフツと湧き上がってきていた。
 
「この手の押井論とされがちな文脈でどれだけ語られ、鑑賞として楽しまれているのだろうか?」
(続く)

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ソコハカトナク切ない80年代~なぜにアニメで?

ソコハカトナク切ない80年代歌謡を巡る上で絶対に外せないのが太田貴子。クリーミーマミというアニメでヒロインの声優とヒロインの歌う歌とを兼ねたことで知っている方も多いかと思うが、歌謡曲マニア的にはNHK『レッツゴーヤング』サンデーズにいたといえば通りがよいかと(今ググって知った^_^;)。
ついでに歌謡曲マニア的な観点から言えば、このアニメの音楽は馬飼野康二が担当! なかなかに涙腺を突いてくるBGMだったが、なんといっても主題歌。残念ながら馬飼野康二作曲ではないものの、ファンの間でも人気の高い第2ED『LOVEさりげなく』の作曲は織田哲郎。この人、裏の番組『ボトムズ』ではTETSUという名義で主題歌歌ってるし、この時期はアニメ関連の仕事が多かった模様。
 
確かに『LOVEさりげなく』のインパクトは強いのだが、個人的にはTVシリーズ終了後に制作されたOVA『ロング・グッドバイ』の主題歌『ハートのSEASON』がベスト。作詞は恩田久義で、存じていないのだが、楽曲も80年代アイドル歌謡の切ない路線を見事に踏襲したもので、コレといったドラマティックな歌詞内容ではないのに、文字通りソコハカトナイ切なさが炸裂している。
 
それを助長するかのようにアニメの出来自体がソコハカトナク切ないのだ。感動的な別れでラストを飾ったTVシリーズ。再び魔法マミになって、映画をつくる。。。素材としてはいくらでもドラマチックな泣ける作品に出来るところを、敢えて大仰な展開にせず、間接的に刹那的な空気を漂わせている。
 
極々個人的なことだが、映画をつくる話に弱い。それは学園祭前夜の徹夜の世界とでも言うか、妙にハイで、終わってしまえば明日からまた普段どおりの日常が始まることを知りつつ、少しでも時間が経たないことを祈りつつ、大騒ぎに興じる。
 
前にゆうきまさみの『究極超人あ~る』について、ある人が面白くないといっていたが、このマンガなどは、学園祭前夜のテンションそのもので、笑わせるとかそういった類のギャグマンガではなく、コミケノリといわれたように、学園祭前夜のサークル活動的ノリがわからないと面白さは感じられないだろう。
 
映画も完成してしまえばすべてが終り、マミもなにもなく、またいつもの日常が始まる。映画の完成を巡り、マミと同期させ盛り上げることなく、映画制作は淡々と続く。この淡々さ。スタッフが仮眠をとりつつも徹夜の日々、といった風景の連続で描かれる。この行間というかコマ間というか、そこにモラトリアムの終焉を感じてしまうのだ。
 
そう、このアニメとその主題歌に漂うソコハカトナイ切なさは、猶予され、いつかは脱しなければならないモラトリアムの切なさなのかもしれない。
 
このアニメ、TVシリーズの監督をした小林治は監修で、監督は望月智充がしている。全編、望月くささが出ていて、80年代アニメヲタなら郷愁さえ感じる独特の演出。この人が監督したアニメは大仰に感動的な作品はなく、どれもソコハカとない。それと認知していなくとも、ジブリアニメ『海がきこえる』をみていれば納得いただけるかと。
 
望月作品といえば、なにはなくとも『きまぐれオレンジロード』となるが、劇場版『あの日に帰りたい』は、永遠に遅延されると思われた主人公の三角関係にピリオドを打ってしまった。ファンから何からさまざまな波紋を呼んだが、はじまったものは終わらせないといけないわけで、これはもうとにかく切ない。このアニメも、ドラマチックな展開はなく、単に一人の女を切っていくその過程が淡々と描写されている。
 
知らない方はそんな淡々としたアニメが面白いのかと思われるかもしれないが、望月演出に切っても切れない要素、日常の緻密な描写が突出しているので、実写ドラマも顔負けの淡々とした日常で恋愛ドラマも1本の映画にしてしまう。TVでロボットアニメをやっているのはともかく、雑誌『ぴあ』や吉祥寺の駅など、ロケした風景が固有名をぼかすことなくこれでもかと細かく描かれている。こういった表現の積み重ねで、淡々としながらもその行間で語るという演出を可能にしている。
 
これまで止まっている絵を動いているようにみせるために、アニメの演出はとりわけキャラクタの動作がオーバーになりがちだったところを、斯様な演出で微妙な感情を表現した望月演出の評価って滋味だからかあまりされていない気がする(特にOVA『誕生』第1話は代表作にすべき傑作だと思うんだけどなぁ)。
 
まぁそういったヲタな話はともかく、80年代的ソコハカトナイ切なさはバブルのエアポケットとして派生したモラトリアムがその根底にあるのではないかという結論でどうでしょう? それは学生運動の頃から引きづられた概念だとは思うのだが、学生運動にしてもヒッピーにしても発露の先というものがあり、部外者からも見て取れたが、80年代的なそれは、バブルの狂乱の渦中にありながら、表面化しなかった。後に90年代を向かえ「オタク」という形で現出するわけだが、そのときにはもうモラトリアムのような安穏としたものではなく、一種の開き直りにも似た様相を呈し、更に後に「萌え~」とあっけらかんと街を闊歩するようになるのだ。
 
80年代のなんとなく前時代の影を背負う暗さ、煌びやかな表向きの反動としての漠然とした暗さは、やはり名称として「オタク」ではなく「ネクラ」だったのだろう。
 
そう考えると、80年代バブル期の「葉山でシーサイド」的な文化をモロに反映したオレンジロード、モラトリアムの代表として常に語られ続けるめぞん一刻。両作品に実質上のピリオドを打つための映画を監督したのが望月智充であるというのもなんとも呪われた暗号とでもいおうか。。。
 
で、現在のオタクが思いのほかあっけらかんとオタクライフを満喫している感じから、モラトリアム的なテンションはどうにも感じないわけだが、そうすると昨今問題にされがちなニート、あれはモラトリアムとは別のところにあるものなのだろうか。オタクだろうとなかろうと、めぞん一刻的モラトリアムには多くの若者は共感しえたわけだが、現在のアニメにソコハカトナイ切なさがないとするなら、やはり時代の空気として、ニートはモラトリアム的に捉えるべきではないのだろう。
 
ちょっとニートについでながらつっこんでしまったが、ニートをどう捉えていいか、イマイチ感覚的に釈然としていない自分にとって、このソコハカトナイ切なさが一つの契機になったような気がする。今後、機会があったらニートへも接近してみたい。
 
あ~、その前に、この流れから行くと昨今のアニメみないといけないような。。。可能だろうか?(^_^;)

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ボトムズDVD~今出るとそそられるが、買うべきか…

装甲騎兵ボトムズ DVDメモリアルボックス ボトムズのコンプリートDVDボックスが出たということで食指が伸びる。

でも、これまでLDなどの特典で付いた「証人喚問」や、赫奕の「ブリーフィングI&II」は収録されているのだろうか?

個人的にはOVAオンリーのボックスを熱望だが(「ビッグバトル」は要らない)、問題はもうひとつあって、それはDVDというメディアということ。


アンチDVDというわけではなく、日常お世話になってはいるのだが、あくまでビデオテープよりいいというだけで、正直、TV録画をテープで保存しておくより画質・効率がいいというはなし。

これがマスターともなると甚だ疑問で、やはりアナログで制作されている作品はLDで欲しい。しかしプレイヤー等の寿命・現在のAVを取り巻く環境の問題もあるので現実的ではない。それ以上に次世代のブルーレイ等の技術に期待しているので、どうせDVD化されるようなマスター保存がしっかりされているソフトならブルーレイにするのは問題なかろう。となると、DVDで買ったら買いなおしになる。

最近出たものならイザ知らず、十年以上前の作品を買うということは、また十年後も欲しい確率が高いわけで、そう考えるとDVDのパッケージとしての魅力は薄いと思わざるを得ない。


ドキュメント・ボトムズ―高橋良輔アニメの世界

というわけで、今回のDVDボックスは見送りとなりそうだ。まぁ高橋良輔作品の本も出てることで、こういう機会にまた観てみるのもいいんじゃないかと。

夏コミの応募締め切りが近づいている中、イノセンス+高橋良輔(ボトムズ+ガサラキメイン)本の新刊とのリンクを模索している今日この頃でした。

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SEED DESTINY は自衛隊に見えないの?

もう派生するガンダムに興味は無いのだけど、たまたま『SEED DESTINY』(以下デスティニー)の第一話をみた。
 
『Vガンダム』がボスニアだったからすぐ繋がっただけかもしれないけど、これはモロ自衛隊じゃない!? つまり、イラクに派遣される自衛隊。
 
平和憲法違反なのか、抑止力としての軍隊保持なのかっつーところがモロに台詞としてキャラに言わせちゃうあたり、自覚的に国防救援団体なのか軍隊なのかという選択下に置いているんじゃかろうかと。
 
アニメと実際をリンクさせるって言うのはオタク的発想の、いえば特権みたいなもんで、アニメというものにリアリズムを見出せないオッサンなんかにゃ到底及びもしないもんのはずだけど、「SEED DESTINY 自衛隊」でググってみても、やっとこのサイトが引っかかって、他は殆ど萌えばっか(チャットとか2ch系BBSは調べてられないからわからないけど)。
 
 
ヤマトあたりから起因して、ガンダム以降の虚構の中の歴史創造っていう、大塚英志とかがお得意の冷静崩壊後の大きな歴史物語の再生産がアニメで行われるってやつ。ファイブスター物語なんかが顕著だけど、空想の歴史つくって遊ぶ的なもんは90年代以降のオタクにはないものなのか、史実とのリンクとか、そういったリアルなもんとしてアニメと対峙しなくなったのだろうか?
 
いや、現実と混同しているとかそういう話ではなくて、キャラクタの葛藤とかそういったもんをリアルに感得して、自分なりの問題意識として照らし合わせる、みたいなことはしないのだろうかと。萌えはわかった。でもそれは対象と自分は次元の違う隔絶されたものとして、無責任というか、冷めれば紙くずみたいなもんなのかなと。
 
連日報道されて、日本人も殺されて、自衛隊派遣延長の議論も続く中、デスティニーを見て一時的に萌えて消費して終りなんかね? 仮に萌え対象のキャラが死んだとしても、イラクで日本人が殺されても、それらを知った一人の人間の感情として、自分にとってはどうでもよろしいってことなのだろうか。
 
自分が所属していると思っている共同体の定義ってことになるのかもしれない。同じ日本人とかってアイデンティティないと、イラクで日本人人質になってもどうでもいいのかもしれない。個人的には人質にイギリス人も韓国人もないと思うけど、少なからず日本にいる日本人という視点で報道はやってくる。それをどう解釈するかは個人の勝手だけど、現在の日本という上で自らを自らであると規定しているならば、政治的パフォーマンスの対象として日本人が人質にとられるってことに対する、なんらかの感情の動きはないもんなのかなぁ。虚構とか現実とかってことじゃなくて、アニメ見て感動するっていう個的で素直な自分の感情として、日常の驚きも自らが体感した感動ということで等しいなら、アニメキャラでも自衛隊員でも死は等価にはならないのだろうか?
 
少なくともソ連やベルリンの壁の崩壊をリアルタイムにいたものとして、冷戦構造などなど、第二次大戦の爪痕はパトレイバー2じゃないけど、戦争は続いているって思わせるに足るものだ。アニメでとりわけ戦争を扱うならば、核やらなんやらが取りざたされることが当然に思えるし、そういったものをみて、思うところは常にある。
 
自分がアニメから遠く離れた感覚を覚えるのは、アニメから第二次大戦を感じないことが増えたからだろう。そんな気が最近、夙にするのだ。

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