ボトムズ論補稿(3)

 | 第1回  | 第2回 | 最終回
さて、前述の頂いた資料というのに、女性の『ボトムズ』ファンの方々による同人誌も入っていた。『ボトムズ』の背景を用いた創作小説なのだが、そのあとがきというかフリートークに、痛烈な、異能生存体、及ぴ『赫奕たる異端』批判があった。

つまりは、キリコが異能生存体でなければフィアナは死ななくてすんだ、わざわざ解凍してまでして再び戦火の中に戻す(そしてフィアナを殺しちゃう)なんて無駄じゃないか、ということらしい。

まあ、ごもっともな話である。確かに、殺すためにわざわざこしらえた話といってもいいくらいで、そうやってみると、確かに嫌な話である。そういう観点でみるのは、こういう言い方は好きではないが、女性ならではの観点ともいえると思う。ある種の感情移入というか、好きで、愛着あるキャラクタならなお更、鑑賞者は死というものに対して敏感になるだろう。

しかしキャラクタが死ぬことがそんなに悪いことだろうか。特に戦争を扱うものでは人はたくさん死ぬ。故に演出家に倫理が問われてくるのだが、物語に於いて人が死ぬという要因は必然という名の演出であって、往々にして意味、そして多くの作品は安易な感情付けとして機能する。

前述の拙稿『異能生存の存在証明 』では、キリコがTVシリーズでは戦争のない世界に行くという、選ぱれた、特殊化した存在として描かれたため、ただの一介の、そこにあるもの(まさに「犬」)に還元するために用意された物語としてフィアナがある、と解釈した。

しかし、フィアナが死んでまずいとなるとその筋書きが危うくなる。個人的にはこの解釈を訂正する気もないし、キャラクタは演出上、意味を付帯された記号にすぎないと思っているし、故に、作品は鑑賞者の都合で更新されない(押井守でいうなら『御先祖様万々歳!』での文明いわく「キャラクタが抱える近代の苦悩」)。

ならば、ということであえて言えば、フィアナではダメで、そこら辺の一介の兵士なら死んでもいいのか、ということになる。しかし、その女性ファンの文章を読んだ限りでは、恐らく、殺しかたに問題がある、と言いたいようだが、果たして死ぬことに対して、その方法や死んでもいいやつ/悪いやつがあるのだろうか。

それに『ボトムズ』の魅カとして、先の稲葉何某の指摘するように、単なる量産型兵器に載る一介の兵士であるところのキリコが設定としてあり、故に魅力的で、創作小説の書けるような一要因であることは否めないのではないか。


特殊であることから翻っての一介性(平凡、一般とも)、この両者の対比関係が『ボトムズ』という作品を支えているとは、今日までの数々の『ボトムズ』にまつわる現象、証言が語っていると思う。


【了】

←クリックいただけるととても喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ボトムズ論補稿(2)

 | 第1回  | 第2回 | 最終回 

佐藤健志をして周到とするあたりでどうかと思うが(『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』という本は、今更置いてないでしょうが、肩書きだけでは内容のよさは判断できないというすばらしい教訓を残してくれます)、なかなかに「ボトムズ」の内容がわかりやすく示されているし、上野俊哉を引き合いに出しているあたり、押井守嫌いだとわかるし、あまり関連付けずに中傷したいだけなのがバレバレで潔い。

ここで、ついでに新作OVA『赫奕たる異端』について粗筋を説明しておこう。


キリコとフィアナがコールドスリープによる眠りに入ってから32年が経過していた。ギルガメスとバララントは再び戦争状態に突入し、いつ果てるとも知れない闘いを繰り返していた。そして、戦争はコールドスリープとその蘇生技術の向上をもたらしていた。

戦争の絶えないアストラギウス銀河において普遍的なものの一つにマーティアルという宗教結社があった。そのマーティアルの宇宙工場群でキリコとフィアナのコールドカプセルが回収され、蘇生が施される。マーティアルでは教会というものが絶対的権力を持ち、現法王の後継者を巡った権力闘争の真っ最中だった。戦争の負の代償として、地位と名誉の血みどろの争いにすっかり教会の信仰は染まっていた。マーティアルの聖地アレギウムを手中に収めんとする後継者候補のモンテウェルズ枢機卿は、その娘テイタニアをネクスタントというPSのような戦闘兵器に改造し、その技術力を以て法王の座を射止めんとアピールする。

折りしも教会世界を滅ぼすと預言されている触れ得ざるものの来訪が囁かれる。キリコこそ触れ得ざるものと認識され、キリコは再び戦火に塗れる事となる。政治的アピールとしてモンテウェルズはテイタニアに対してキリコ抹殺を命じる。

その時キリコは、解凍後行き別れたフィアナを探しに奔走していた。PSの寿命は2年で、解凍されたフィアナは余命幾ばくの状態。延命措置を受けるフィアナと再会を目指すがテイタニアという邪魔が入る。なんとかテイタニアを打ち遣りフィアナに再会するが、瞬間その命が尽きる。

そして再び一人に戻ったキリコは荒野を歩き始める。


キリコについてみてみるとき、彼はOVAで結果的に、ただの人であるとこが暴露された。これは『ボトムズ』という新作の結末で証明されたのではなく、『ボトムズ』という作品が存在した時点ですでに設定されていたことである。

彼は、社会的価値形態の中で誰彼にイメージを、作中で付与されていたに過ぎず(それは異能者であり超人であり触れ得ざるものであるところの)、存在として、意味などはじめからなかったのだ。意味存在という括弧づけからの逃走、それにはルサンチマンも何もない。

作品という中の、設定というレベルで社会と対比してはじめてルサンチマンが成立するわけで、「犬」がルサンチマンを抱えているとすれば、それはこちらがわ、鑑賞者が実社会と照会しているからだ。われわれの視点、人間からの犬の視点のみに対して、作中で「犬」はルサンチマンをいだくのであり、存在として、キャラクタとしての「犬」は、ただそこにいる存在、即ち、キリコ的存在以外の何者でもない。キャラクタというものが、運命なり宿命なり、何らかの意味や意図を背負わされていることへの自己言及的な態度として「犬」があるのに、だ。

しかもこのことに対しては、稲葉何某は富野作品をして、はまってしまった落とし穴(「運命に翻弄される人々」というオハナシ)と、キャラクタの抱くルサンチマン問題への回答を導き出している。

そう、ルサンチマン云々をいうのであれぱ、アムロ=レイや碇シンジという好例がいるではないか。キリコはそうではないといっているのでさておくとしても、都都目紅一、裏演出家の<私>、乾、後藤、諸星あたるまでもが、果たしてルサンチマンを抱く、で終わるようなものなのだろうか。


つづく...

←クリックいただけるととても喜びます

| | コメント (1) | トラックバック (0)

ボトムズ論補稿(1)

 | 第1回  | 第2回 | 最終回

ボトムズ論補稿 ~未見者のため、もしくは復習として~

過去に掲載している拙稿『異能生存の存在証明 』をミニコミ誌として発表した当時、御買い上げいただいた方から手紙と同人誌をいただいたのだが、その中に、「ポップカルチャー・クリティーク」0号のコピーが同封されていた。この手のサブカル雑誌にはうんざりなので知らなかったが、稲葉振一郎なる人物が「ボトムズ」について触れているので、少々長くなるが「ボトムズ」の概要がわかるものなので、ご存じない方は是非読んでみて頂きたい。


この作品について、批評家の上野俊哉 氏はこう書いています。
「装甲騎兵ボトムズ」では、アストラギウス銀河を二分するキルガメスとバララントの星間国家の間で、もはやその理由もさだかてはないままつづく「百年戦争」が、実は「ワイズマン」という異能者たちのバイオチップを複合した不可視のコンピュータ・ネットによって演出されていた過程か描かれる。主人公キリコ・キュービイが異能者(二ュータイプ?)であったことも、キリコが遺伝子工学と生化学技術によって作られた異能者であるPS(パーフェクト・ソルジャー)の女と恋におちることも、ここでは全ての出来事が見えないカによってプログラミングされていた(このへーゲル的「歴史の終り」にのぞんてキリコはニーチェ的な「超人」としてワイズマン=「絶対神」の支配と遺産すら拒否する)。(上野俊哉「ジャパノイド・オートマン」『ユリイカ』一九九六年八月号「特集ジャパニメーション 」、一八二頁)
これは、最後のヘーゲル の二ーチェのというオハナシを除けば、きわめてわかりやすい「ボトムズ」の要約紹介です。要するにキリコはPS(「機動戦士ガンダム」シリーズの用語でいえば人工的二ュータイプとしての「強化人間 」ですね)の秘密を知ったがために追われ追われの族を続ける、と最初は見えたのですが、やがて彼をハメた連中の黒幕であるワイズマンの関心が、PSにではなく彼自身にあることがわかってきます。PSはかつて古代文明において自然に出現したワイズマンら異能者(「ガンダム」でいうところのニュータイプです、まさに)の人工的で不完全なコピーにすぎず、キリコこそが数千年ぷりに誕生した自然の異能者であること、そしてすべては、ワイズマンか自分の後継者を生み出し、鍛え、遺産を受け経がせるための出来レースだったわけです。そして終幕ちかくでワイズマンと出会ったキリコは、自分を翻弄した宇宙に復警するためワイズマンの後継者になる、と宣言し、かつて自分を追いつめてきたワイズマンの手先(そのメンバーはワイズマンの真意をまったく知らされていなかった哀れなたんなる道具たち)の秘密結社の首領となり、ワイズマン復活阻止のためついに手を結んだ二大強国の軍を蹴散らし、ワイズマンとの最終ランデヴーポイントに臨みます。その途上でキリコは最愛の人PSのフィアナら数少ない仲間の阻止を冷酷に振りきり、いまは自分の部下となった秘密結社のメンバーを弾よけ、捨てゴマとして容赦なく消費していきます。このあたりの描写は圧倒的な迫カです。
しかしついにランデヴーポイントに到達したキリコは、ワイズマンの宿るコンピュータを破壊してしまいます。すべてはワイズマンを欺くための決死の演技でした。彼は戦争に利用されることを拒否し、愛するフィアナとともに、戦争のない世界への逃避の希望をつないで、宇宙空間で醒めるあてのない人工冬眼にはいり、物語は終わります。
平たくいえば、キリコは神様になることを拒否して、ふつうの人間であることを選んだのです。先代の神様たるワイズマンは彼を選び、彼のためにすべてを用意しました。しかもご丁寧にも、彼がそう望むような動機(戦争のなかで翻弄され、権カにもてあそばれ、おぞましい人間兵器にされ、そのうえで愛を知り、人間として生きる喜びを得たにもかかわらずそれを奪われ、世界と己の運命を憎むように、と)さえ与えて。にもかかわらず彼はワイズマンによる選びと救済を拒否したわけです。でもそこにはなんの不思議もないですね。上野氏は「超人 」という言葉を用いていますが、注意しなければならないのは、この「超人」とはあくまでもふつうの人間だということです。自分を破壊しようとするキリコにワイズマンは、おまえを彼女と巡り合わせ、愛するように仕向けたのも自分だ、と言って彼の心を惑わそうとします。しかしそのような惑わしに負けないことが、「超人」であるということです。ワイズマンがそう仕組んたことはたしかに事実です。それでも、彼女をいま現に愛しているのは彼自身にほかならない。彼を作り出したのがワイズマンであっても、いま現に生きているのは彼自身なのです。そのことを肯定し、それ以外に自分が生きていることの根拠なるものを必要としないということが「超人」であるということです。べつにまったくたいしたことではありません。
ちなみにLDボックス第二巻のライナーノートでは、高橋氏が「機動警察パトレイバー」「攻殻機動動隊」でおなじみの押井守氏と対談していますが、押井氏は自分のいつもの「犬」概念に引き寄せてむりやりキリコを解釈しようとしていて笑えます。バカじゃなかろか。押井氏の「犬」ってのはいつも自分がそのために生き、死んでいける神様をうろうろ捜している衰れな捨て犬のことで、まさに「超人」の反対、後述する「ルサンチマン 」の権化なんです。「ボトムズ」世界における「犬」はワイズマンの手先たち、そしてワイズマン自身にほかなりません。いやこんな言い方、すべての犬に対して失礼ですね(なお押井氏の「犬」概念については、それに対する佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義 』文藝春秋、一九九二年、の周到な読解解が参考になります)。
「ボトムズ」が多くの人々に愛されているのは、それがいわゆるリアルロボットもののひとつの到達点(たんなる通常兵器としてのロボットに乗る主人公!ロボットはいくらでも代わりがある使い捨ての道具にすぎない!)を示したと同時に、「ガンダム」「伝説巨神イデオン 」「聖戦士ダンバイン 」に見られる、富野喜幸氏(現・由悠季)のロボットアニメがはまっていた落とし穴(「運命に翻弄される人々」というオハナシ)をすんなりと回避しているからでしょう。いえ、「自分か自分であることの肯定」を直接的なお説教というかたちでしか示せなかった「新世紀エヴァンゲリオン 」さえもそこでは前もって克服されているのです。
個人としてまっとうに生きるためには、いやおそらく社会がまっとうなものであるためにさえ、二ュータイプとか人類補完計画とかは不必要であり、そのようなものへのこだわりこそがますますそれらが癒すと称する病へと人を導くのです(薬物依存と大差ないですな)。


一応付け加えておくが、今後文脈の上で取り上げる作品、TVシリーズと時代を同じくしてサブストーリーとして制作されたOVA『野望のルーツ』『ザ・ラスト・レッドショルダー』は、キリコの異能性を見出したペールゼンなる人物が超人的戦闘能力の集団レッドショルダーを組織し、さらに人造的な超人兵器PSを生み出す過程と、それらがキリコとの邂逅により生まれ、キリコによって翻弄される様を描いている。


つづく...
←クリックいただけるととても喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ボトムズ論補稿・序

 | 第1回  | 第2回 | 最終回
このところ更新回数は増えたものの、過去の執筆のUPが滞っていたので、前回UPしたボトムズに関する『異能生存の存在証明』 の補稿を付記しておきたい。

併せて、『装甲騎兵ボトムズ』 というアニメの概要もフォローしているので、ボトムズなに?って向きにも過去の関連の文章が少しは読みやすくなるかなぁと。でも、あらすじとは概ね既知のものにとって想起という意味で便利なだけであって、未知のものには畢竟、見ていないこととあまり変わらないというのが本当のところなのだけれども。まぁたまにはこういうこともやりますよってことで。

つづく...
←クリックいただけるととても喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)