他愛もない内輪ネタ~映画『立喰師列伝』雑感その4

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観劇からだいぶ時間が経ってしまい、語るモチベーションも低下してしまった今となっては、DVDによる再鑑賞後に記すべきだと思うが、まぁ備忘録として思いつつままに書き並べておこう。
それもこれも、暫く放置しておいた自分の責任なのだが。。。


渋谷で公開されていた劇場「シネクイント 」はリニューアル後の杮落としとして妙に力を入れていた。場所柄、シネマライズ至近、それもパルコ内とあればもう少しコ洒落た映画でもかければいいのにと思うが、まぁ内部にそういう人がいたんでしょう。前夜祭やらなんやらとやたらにイベントをしかけ、押井作品の立喰ネタ、それも「うる星やつら」の立喰ウォーズあたりを上映してしまう程の力のいれっぷり。押井ストを自称する輩でも押井CDうる星をコンプリートしているのはどれだけいるんだろうか。「ヤットデタマン」もかけたみたいだし、そういう意味では貴重な上映会だったといえるかもしれない。
流石にジリオンのビーフボールまではフォローし切れてないようだったが(丸輪零の名義で脚本。あれ、Wikiで演出になってるけど、演出したかなぁ?? )、今回はそういう話をする予定じゃなかったのに、逸れまくってしまった(^^ゞ


紅い眼鏡劇中に、「紅い眼鏡」の映像などが挿入されたりしていたが、これにはキャプションもついていたし、気づいたというレベルの問題ではない。 もちろん、犬丸のゴトが「御先祖様万々歳!」のそれと告示していたことは指摘に値しないだろう(構成上の問題が、語りの間合いが短く、本来のものと比べてとても物足りなかったことは付記しておこう)。
自分にとって押井作品の1番というのは決めがたく、いくつもの作品が時期時期に浮き沈みするが、特に思い入れのある作品の内の一つに、「ストレイドッグ」がある。宣伝上、どうしても“地獄の~ナンチャラ”というタイトルにしたかったらしく、公開時は「ケルベロス~地獄の番犬」になった。フジテレビが絡んでいて、深夜帯にはTVスポットも打たれていたのだが、これがなんともVシネマのようなもので、実際劇場にヴァイオレンス銃アクションを期待して呆気に取られているカップルを目撃した。
まぁこの映画自体、ドンパチやります、プロテクトギア50体ドカンと出します、といって、既成事実だけつくってだまくらかしてでっち上げられた映画のようで、全然そんな内容ではないのだけど(プロテクトギア50体にいたっては1カットのみ!!)、映画内に流れる時間がすごくユル~くて、なんともいえないトリップ感があって、好きな風景だけに囲まれてたゆたうような時間がもう堪らない。晦渋なる台詞回しとかないんで、ファンの間でも黙殺に近い扱いを受けている映画(先に記した公開記念イベントで上映された作品のうち、パトレイバーの「その名はアムネジア」自体がストレイドッグ 「ストレイドッグ」のパロディで、音楽も川井憲次自身が自作をパロったような曲になっていた)。
で、その既成事実のプロテクトギア50体が牛丼の牛五郎軍団のシーンと配置がソックシ! カメラを引きながら、どんどん牛五郎が逆三角形の配置に増えていくというもの。それも背景が真っ黒(この映画全編通して背景が黒ばかりだけど)な上に増えていくものだから、「うる星やつら2」で面堂終太郎が、この世界は誰の見た夢なのかを推理するシーンの逆回しのようで、このあたりはニヤニヤしっぱなしだった。


他にもいっぱ~いあったのだけど、御免、完全に失念。
これじゃ備忘録にもならないのだけど、他に気づいた方はコメントくれると嬉しいッス。DVDで見返したときにでも続きは…書くかなぁ(~_~;)


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映画『立喰師列伝』雑感~その3

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気づくとディズニーランドについて考えている自分は、西武園の観覧車の中でもう一人の自分との自己対話に興じる。今作の画的な見栄えが『迷宮物件FILE538 』に似ているということもあるが、殊更このシークエンスは迷宮物件を髣髴とさせる。
監督自身が語るように(監督が言っているから正しいというわけではない。あくまで監督自身の述懐として参照するに止まるのだが)、安保の季節以降については語るところを持たないというように、FCがその舞台となる牛丼の牛五郎以降、老獪極まりない薀蓄は陰を潜め、過去の自作群を模倣するかのように、ストーリーの追える筋の通った時間が流れるようになる。
この後半部分は、映画に引き込まれるように観れるし(監督の演出家としての仕事が発揮されている瞬間といえるだろうか)、自己言及的とも取れるセリフ回しにしても、前述のような旧来のファンを満足させる部分ではあるだろう。特にフランクフルトの辰にいたっては、ニート的な、いわゆるモラトリアムのアンビバレントな話であり、この映画鑑賞者の平均年齢を考えれば、シンパシーを憶える現代的な題材ともいえるだろう。
ただやはり、それは食についてまわる事物に対する述懐であり、ディズニーランドにフランクフルトが売ってない事の喪失感と、さらには持ち込むことすら許されない、世の中における自身の肩身の狭さというものが、自分のことはさておいても30そこそこの年齢の鑑賞者層が、モラトリアム 的な二律背反 を、前述の晦渋なる発語(シニフィアン )的カタルシス以上に身につまされるものとして実感でき、かつそれを映画という娯楽として教授できるのか、甚だ疑問である(とはいえ、自分のB級飯ブログをご承知の方ならお分かりかと思うが、東京ドームでもフランクフルトがなかったことは結構なショックで、スナックランド のない池袋の居心地の悪さと同等であった)。


もちろん、このような映画に嬉々として馳せ参じる輩が、凡そオリエンタルランド 的娯楽強要を、なんらの疑いも無く受け入れているとは考え難いが、しかしそれと同じくらいに、ロジカルな表層的意味の探りあいに終始して、何故にオチャラケとも捉えられかねない晦渋なる言葉遊びで装いつつも、実にくだらなくもしみったれで、故に実生活的に深刻な事象が横たわっていることを取りざたしないのか。
それを今回の『立喰師列伝』でいえば、映画的演出という意味でのコミカルな面白さではなく、人が食い物に執着する滑稽さにこそバカバカしくも拭いきれない人間の動物としての性をいとおしく描かれているのではないだろうか。このバカバカしさは、ヒトを煙に巻く程の難解なセリフ回しも実はガキのイタズラのような無邪気で無責任なものでしかないが、故に――人なんて成長したってそんなクダラナイものが楽しいなんて存外そんなもんでしょ――という真実もあるような気がする、というものなのだろう。その意味で、これまでの押井作品では人間のどうしょうもない部分が秘められていたのに対し、今回はまず「食ありき」というそんなもんですよって部分が始めから提示されている点で特異でありながら、紛れもない押井作品であって、そういうもんを描く器(=表現媒体)としての映画ということで、大変興味深い一作ではないだろうか。


――――――――――


一応これで雑感は終りだが、次回はオマケで押井ファン的な目線から気になったことをいくつか雑談っぽくつついてみたい。過去の押井作品を知らないとつまらないので、為念。

つづく...

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映画『立喰師列伝』雑感~その2

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今回も冗長とか衒学的とか言われ兼ねないマシンガン・ナレーションが展開されるが、これまで多く押井作品を評して語られる種類の哲学的とされる言説とは一線を画している。簡単に言えば、キャラクタが論じる自らの存在や世界に対する問い掛けは、作品や物語、引いては映画に対しての自己言及的な弁論ではなく、食べるという状況(食そのものではなく)に対して述べられている点だろう。
そんなこと見れば一目瞭然で、わざわざここで自分が述べるべき事柄ではないのだが、過去幾度か述べてきたように、押井作品を殊更愛好する輩は哲学的論及と安易に目されやすいセリフ回しが好きなのだと思われているようだし、事実妥当する言説も多くある。最近はこういった映画に対してどうこうと話し合うような環境から遠くはなれたため、『立喰師列伝』が斯様な層に概ねどう評価されているのか知る由も無いが、そういった向きには些か消化不良というか、楽しめたけど、完全燃焼できなかったのではないだろうか。そう思うのは、前述の通り、そのマシンガン・ナレーションの内容が食べるという状況を巡るそれだったからだ。
自分が過去幾度か述べてきた事例というのは、自己言及やそれを巡って構成された作品構造を殊更に取り上げるあまり“それによって見えてくるもの”を見失っているのではないかという指摘に他ならない。なんで自己言及なのか、なんでメタフィクションなのか・・・映画が映画であるその属性にこそ、映画でしか出来ない快楽があるはずだ。小説やマンガで代替できるカタルシスであれば、わざわざ映画にする必要は無い。映画じゃなきゃならないこと、それを巡ってキャラクタが、構造が、自らを構成する映画について言及すること、その瞬間こそ、映画が起立するんじゃないか。その瞬間の気持ちよさを、人は映画に見出しているんじゃなかろうか。
もちろん、マシンガン・ナレーションが発語という音としての響きのカタルシスはある。その文意を理解しようとしまいと、日本語の語感としての気持ちよさがあるはずだ。この映画に限らず多くTVなどでもクレームとして「意味がわからない」「なにを言っているのかわからない」があるが、世の中全て所在がはっきりしていればいいというものではない。聞こえなくてもいい、見えなくてもいいという瞬間があるはずだ。耳を澄ます、目を凝らす、もしくは聞こえるか聞こえないか、そのあやふやな間を愛でるという、日本人が得意であったとされたはずの“間”の世界はいつしか押しやられ、なんでも明瞭がよしとされる傾向は如何なものか。
閑話休題。語調としての気持ちよさは、劇中でも次第に講談口調のナレーションになったりと、恣意的なのか、随所に感じ取れる。よく聞こえなくても意味がわからなくても、気になれば2度見ればしいのだし、後で調べればいいのだし、それくらいのユトリというか自由度が映画にはもっとあっていい気がする。映画見るのに、ちょっと聞こえないとか文意がつかめないくらいでギスギスしたくない。
こうしたカタルシスが押井作品の魅力の一つではあるが、どこか意味というか理由付けをしないと腑に落ちない。というか、理由付けをすること=作品を理解することが押井作品の評論であるということに堕しかねないというのが指摘した危うさである。理解する自由があるのは当然だが、その見方だけが全てではない。
とはいえ、劇中で語られる言及には、食という状況にまつものでありながらも、これまでの押井作品に似た語られ方をする部分もなかったわけではない。フランクフルトの辰の述懐がそれである。
 
つづく...
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映画『立喰師列伝』雑感~その1

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以下の『立喰師列伝』 に関する雑感は、自分の食べ歩きブログ で発表したものをちと加筆・訂正したもの。その後、未発表の文章を逐次UPしていく予定。


それにしても、蕎麦の不味そうなこと不味そうなこと!
戦後から語り継がれるプロの立喰師の偽昭和史をドキュメンタリー方式でコミカルかつクドクドしく描かれる映画なもんで、その舞台はガード下のコ汚い立喰そば屋だから、藪とかそういう一チョ前の蕎麦であるはずもなく、不味そうに見えて当然といえばいえる。
で、実際映画の中でも不味いことになっている。そばを提供する店のオヤジが「たかが蕎麦じゃねぇか」って自分で不味いと思って作ってるんだから、余計にタチが悪い。劇中のセリフにもあるように、八方ふさがりな状況である。とはいえ、曲がりなりにも食べ物が中心になっているのだから、次第に旨いものになっていく過程をドラマとして描くとかして、仕舞には旨そうになっていくものだが、食べ物の味自体についてはついぞ問われることはなく、最後まで蕎麦は不味そうなままだ。
それは、食べ物そのものではなく、食べるという行為、食べ物のある状況を、食べものを通してみえてくる風景を巡る映画だからなのだが、これまでの数少ない映画鑑賞歴から考えても、不味そうな映画はこれと『コックと泥棒、その妻と愛人』をおいて他に知らない。


俗に人間の三大欲求などといわれるものに伴う行為ってのは、どうにも間抜けというか、端からみてみっともないというか、動物的といえるような、実に人間の本来の姿であって、そもそもが浅ましくも卑しい存在なのだろう。そんな動物的に好き勝手やっていると、一人ならいいけど、沢山の人が共存する中では、他人同士が上手くやっていけないので、社会というか秩序を設けなくちゃならないんだろう。
人間元来がいい加減に出来ていて、それを否定することで協調を尊ぶのが社会であり、それを肯定するものが芸術である、というのは立川流家元の言だが、まぁ生き物を殺生して生き延びているんだから、人に胸張って堂々と言える行為じゃないなぁ。

それを社会的に正当化するにはいろいろ御託というか能書きを垂れないといけない。『コックと泥棒・・・』の主人公のオッサンは金持ちでグルメっぽいんだけど、高級レストランで下品な話ばかりしてるし、厨房じゃ豚とかバカバカ殺した残骸が転がってて、見た目は鮮やかでも内蔵ぶちまけたみたいな撮り方をした料理が供される。オチはまぁ一種のカニバリズムなのだけど、食ってのはこういうことなんだろうと。


『立喰師列伝』に戻そう。戦後の闇市の蕎麦は混ぜもんだらけで凡そ蕎麦といいがたい代物だったらしい。それでもちょっとでも蕎麦っぽいというだけで蕎麦食ってる気になれる。その気になれるってことが重要だったのだろう。
ラーメンの麺だって、工業用の苛性ソーダや、洗濯ソーダ(重曹)がかん水代わりに使われていた。ラーメンといえばかん水臭くないとラーメンという感じがしないという人もいるわけで、そういうちょっとした日常の食の嗜好からでも、戦後がそこに横たわり、そうした歴史の上に現在のかん水臭くない麺が成立していると感慨深く思う想像力は十分に働くだろう。


そんな混ぜ物からみえてくる風景は、実際に目に見える光景からも伺える。現在そのラーメン屋が建っている場所は、街は、以前なんだったのだろう。
飲食、とりわけラーメン店は不動産物件として臭いや脂の問題から空きがあってもラーメンはダメといったように、なかなか貸したがらない物件とされている。だから余程特殊な状況でない限り、幹線道路沿いなど余程広い土地でないと借り手の難しい立地だったり、水商売のお店が多い一角で他に行き場のない訳有が集う場所に集中しがちだ。特に東京では後者のケースがかつては多く、訳有でなくても、歴史的にそういった業態を受け入れやすい土地というのはある。大抵そういった土地というのは、三業地であったり、赤線があった場所であることが多い。


自分が食べ歩きに際して、土地や建物、その街といっしょに捉えているのは、食べ物を通して具体的にも概念的にもみえてくる風景というものに惹かれるからに他ならない。その意味で、映画『立喰師列伝』は自分が様々のことに問いを立てるようになった15の頃より抱いていた見方を見事に表現してくれた。できることなら、15の自分に会っていってやりたい。――まぁいろいろ世の中とうまくいかないことも多くて折れそうになるだろうけど、その都度オマエが決断してきたことってのは、そんなにブレてないぞ――


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次から、映画論的(?)な方向の雑感を続けたい つづく..


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